蹂躙・襲来・暴で討つ

惟風

道半ば

 怪しい男にいきなり包丁突きつけられて「動くな。大人しくしろ」なんて凄まれること、ホントにあるんだ。

 この辺りはファミリー向けマンションも増えてきて治安は良いはずなのに。赤ちゃん連れも沢山利用する公園で、俺はぼんやりとそんなことを考えてた。今しがた飲んだばかりのコーヒーの空き缶と、黒いバッグが後ろのベンチに置きっ放しだ。

 まあ真夜中だし、物騒な奴だってたまにはいるか――目の前の出来事を受け止めきれなくて、そんな風に思考が現実逃避してしまう。


「兄ちゃん……どうしよう……」

 俺の横に立っている弟のユウキが、刃物男を見ながら泣きそうな声を出す。ユウキの茶髪が微かに揺れている。恐怖で震えているのだ。

 痛ましさと罪悪感で胸がいっぱいになる。俺が夜中に連れ出さなければ、怖い思いをさせずに済んだのに。


「じっとしとけよ」

 オーバーサイズのTシャツにダボダボのハーフパンツというラフな格好の男は、出刃包丁を俺達に見せつけるようにヒラヒラさせた。ニヤつきながらゆっくりと近づいてくる。服がデカいせいか、かなり細く見える。身長は俺と同じくらいだろうか、決してガタイが良いとは言えない。

 俺とユウキの二人で飛びかかれば何とか制圧できるか……いや、一気に斬りつけられたらひとたまりもない。どう見たって手慣れた様子だし、正体不明のイカれた奴に真正面から突っ込むのは得策じゃない。

 刃物男とユウキを、視線だけで交互に見やった。俺より頭一つ分は背の高い弟。くっきりとした茶色の瞳は、暴漢を凝視していつもよりも大きく見開かれていた。

 全体的に色素が薄く、俺と血が繋がっているとは思えないほどの滑らかで白い肌、長い手足。

 家族の誰にも似ず、周囲の誰よりも目立つ容姿のユウキは、小学生の頃からずっといじめられっ子だった。気弱で優しい性格が裏目に出て、やり返すことのできなかった弟はすっかり人間不信になり、中学を卒業してから引きこもりになってしまった。特に人通りの多い昼間は外に出られない。

 だから、気晴らしのためたまに日が暮れてから一緒に外出していた。いじめられていた当時にちゃんと助けてやれなかった罪滅ぼし代わりだ。それが、こんなことになるなんて。

 ユウキが俺に向かって艷やかな唇を動かす。

「兄ちゃん、だけでも、逃げ」


「動くなっつってんだろうが!」

 男が振り上げた包丁の柄でユウキの顔を殴りつけた。ヒッと声をあげて弟があっけなく倒れる。あまりの躊躇いのなさに、俺は一歩も動けなかった。


「ユウキ!」


「お前もだよ」

 ユウキに駆け寄ったところを、男に腹を蹴り上げられる。ごぼ、と自分の口から息が漏れ、もんどりをうつ。兄弟並んで地べたに転がった。

「にいちゃ……」

 ユウキの口の端から血が一筋流れ、砂に落ちる。俺は腹の痛みに声も出ない。男の一つ一つの動きが速すぎて、何も反応できない。

「へへ」

 男はしゃがみこんで包丁を地面に付きたてると、品定めするように俺達を覗き込んだ。ボサボサの髪、不潔そうな無精髭。汚い毛穴までよく見えそうなくらいに顔を近づけてくるものだから、生臭い息がかかって吐きそうだ。ニヤリと広げた口から、並びの悪い歯がはみ出している。男の頭の向こう側に、街灯がぽつんと光っていた。

 ふと、違和感が頭を過ぎった気がした。でもそれを深追いする余裕は無かった。

 こいつの望みは何だ。金なら、財布ごとくれてやるのに。

 男の足首が見える。地面を踏みしめる黒くてボロいスニーカー、その周りに転がる小石。こんなにか細い足に、俺は一発でノックダウンされたのか。

 ここからどうにかしてユウキだけでも逃がすことはできないだろうか。俺が何とか注意を引き付け――そこで、俺はやっと違和感の正体に気づいた。拡散していた思考が、一気に収束する。

 弟に向かって叫ぶ。


「ユウキ、こいつ!」

 街灯を背にしているなら、男の顔はいくらかは逆光になるはずだ。なのに、こんなにもはっきりと見える。そして、足元に暗がりが一切無い。

「は」

 返事をしたのは男の方だった。

「やっべ、バレちった」

 言葉とは裏腹に、男に焦った様子はない。徐ろに立ち上がると、伸びをするように背中を反らせた。乾いた微かな音と共に、男の額から尖ったものが隆起していく。“それ”が伸びていくと共に、全身の筋肉が太く大きく膨れ上がった。ブカブカだった服が、はち切れんばかりに突っ張っていく。

 俺にはこいつが何者かはわからない。ただ、人間でないことはもはや明白だった。


 ――


 それは、予想じゃなくだった。


 俺は暴力の襲来に備えて目をきつく閉じた。視界を遮断しても、耳だけは聞こえた。

 すぐに、ゴキリという鈍い音。くぐもった悲鳴、大きな何かか倒れる気配。生肉が腐ったような臭いが顔に吹き付けてくる。

 一連の音は一呼吸するほどの間に響いて、その後は静寂が訪れた。葉擦れのざわめきだけ、遠くに感じられる。

 ゆっくりと目を開ける。

 ユウキの足が見えた。弟がこちらに背を向けて立っているということに気づくまでに、俺は十回くらい瞬きをした。


「こ……怖かったよぅ……」


 ユウキは振り返ると、肩を震わせてしゃくり上げた。右手には、さっきまで俺達を見下ろしていた角のある化け物の首が握られていた。滴った血が早くも水溜まりを作り始めている。

 すぐそばに、首から下の胴体がビクビクと痙攣しながら横たわっていた。首の切断面からジャバジャバと腐臭と共に体液が吹き出ている。



「よしよし、もう大丈夫だから。泣くなって」

「だ……だっ……こ、こわがっだ……」

 助けられたのはこっちの方なのに、赤ちゃんみたいに泣きじゃくるユウキを俺は身体を起こして抱き寄せた。柔らかい髪をゆっくりと撫でる。


 ユウキは、家族の誰にも似ていない。それは、見た目だけじゃなくて性質もだ。もしかしたら俺達の遠い祖先に“人ならざるモノ”の血が混じっていて、ユウキにだけ隔世遺伝したのかもしれない。でも、そんなことはどうだっていい。ユウキはユウキだ。気弱で可愛い、俺の弟。

 優しい弟は決して人間を殺したり傷つけたりしない。人間不信になっている今でさえ。

 だけど、


 情け深いユウキに対して、世の中は時に理不尽だ。兄として守ってやらなきゃいけない……と思ってるのに、たまにこうやって守られてしまっている。俺はいつだって後手後手だ。不甲斐ないことを、申し訳なく思う。


「帰ろう。大分汚れちゃったし、兄ちゃんが洗ってやるよ」

 両手を握って立ち上がらせてやる。返り血塗れのユウキを抱きしめたせいで、俺もベトベトだ。母さん達が起きる前に朝イチで洗濯機を回さないと。

「うん……」

 ユウキは、コクリと頷いた。俺を見下ろす瞳はまだ少し潤んでいて、心細さに眉尻を下げる様子は仔犬みたいだ。涙と化け物の血と土でドロドロになっても、俺の自慢の弟は、少しも醜くはなかった。

 最後に、もう一度化け物の死骸を見た。生きている時は恐ろしかったけど、死んでみればゴミみたいなもんだ。


「また今度“お出かけ”しような」

 ユウキの手を引いて、ベンチの上のボストンバッグを持ち上げる。ゴミしか詰まってないのに、みっしりと重い。

 化け物も、しっかり計画立てて不意打ちしたらいじめっ子みたいに俺でも殺せただろうか。いや、考えても詮無いことだ。


 弟を苦しめた奴等を処刑し終わるまで、あと三人。



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