第8話 飛 ぶ 1
まだ、伝えていない話がある――
その言葉を念じ、凛がアクセルを踏み込むと、答えてきたのは四輪駆動のエンジン音だ。オロロンラインに並行して抜ける農道に対向車はなく、積ったばかりの雪で道筋を見失う。灰色に映るナビと拓海の記憶だけで車を飛ばした。
「何時?」
「十二時まであと十分」
「あの人は、同じ時間、同じ場所で逝く気なの」
「――おまえも、恨む気持ちがあるだろう。それでも救いたいのか?」
「あの頃のわたしは、自分のことばかりで何も見えていなかった。ちゃんと向き合えば、親との関係だって違ったかもしれない。臆病で従順な顔をした弱虫……すべての不満は自分にあった」
「凛……」
拓海の手が頬に触れると、凛はうなずいた。
「きっと、耐えていたのは翔も同じなの。母親の恨みが凶器に変わらぬよう、わたしを傷つけながら守っていた」
「そんな愛情もあるのか……」
「翔は自分の命を使って、愚かな行為だと叫んだ。だから、あの人も気がつかなきゃだめ、わたしが救わなきゃだめなの!」
言い切った瞬間、涙で視界がぼやけた。高台に向かう車から埠頭を照らすあかりが見える。翔の告白を聞き、あれが最後に見た親の姿だと知り、泣いた場所だ。
恨みの連鎖など、誰かが断ち切らないと明日は見えない。時間を戻せない以上、前に進むしかなかった。
雪雲は凛と美千代の車を追いかけ、街をのみ込んで行く。ハンドルを取られ、車体が揺れるたびに拓海の手が正しい道へ導く。吹き荒れる雪に視界を見失い、突然、顔を出した対向車に凛は悲鳴をあげた。
「落ち着け、もうすぐオロロンラインだ。間違えるなよ~次の標識を右だぞ」
「標識なんて見えないよ」
「そこだ! ブレーキ! ハンドルをまわせ――――!」
拓海の指示は、冬道講習のスリップ体験で、やってはいけないと凛が学んだ行為だ。当然、車体はバランスを崩し、強制的に凛がまわしたハンドル操作で、交差点を横に滑る。
信号は赤だった。ふり返ってから拓海も気がつく。荒れた天気に車の外出を控えた小樽市民のおかげで、バックミラーに後続車は見えない。手早いギアーチェンジでオロロンラインに滑り込むと、高台のガードレールから無数の光が道を照らしていた。
「何、あれ……雪あかり?」
「明るくて、ススキノみたいだな」
「あそこって、『見晴らし坂』だ」
「新光町民は情が深い。直視厳禁のハイパワー投光器だ。おまえが道を見失わないように、みんなで設置したらしい」
「最強の雪あかりだ……」
凛は唇を噛みしめ、光を右手に見送る。やがて、正面に赤く染まるテールランプを捉え、光が車体を照らすと凛は一気にアクセルを踏み込む。
慣れない雪道で、もたついているなら、左横からまわり込める。しかし、美千代の車は対向車線にはみ出し、向きを変えると助走をつけて魔のカーブを目指していた。
「だめ――――!」
美千代の車に、ためらいは感じられなかった。過去の清算に的を絞ったのは、翔をのみ込んだガードレールだ。凛はアクセル全開で、翔の世界に飛び込む道をふさぐ。花束が風に揺れ、先に辿り着いたのは凛のセダンだった。
急ブレーキでハンドルは取られ、ガードレールを擦りながら進むと火花が散る。巻き込んだ花が空に散った瞬間、美千代の車が真横に迫り、凛の悲鳴に乗り上げた車のうなり声が重なった。
車体がぶつかる衝撃で、凛の車はガードレールを突き破る。雪煙を巻き上げ美千代の車もあとを追う。横転しながら沈む車を踏み台にして、さらに遠くへ美千代の車は落ちていく。
凛の体は飛び出したエアーバックに仰け反り、ハンドルから離れた手が拓海を探す。前後左右に揺らされながら、宙に浮いてはシートに叩き付けられ、そのたびに食い込むシートベルトの痛みで顔がゆがんだ。
雪を削る轟音と壁にぶつかる衝撃を繰り返し、車は横転しながら落ちていく。やがて、助手席を下にしたまま車は滑り落ち、雪の壁に飲み込まれ動きを止めた。
目を開けるのが怖かった。すべての判断が裏目に出れば、人の念が渦巻く世界が待っている。おそるおそる薄目を開けると、エアーバックの隙間から、にらみつける拓海の顔が見えた。
「おい……誰が真横で暴走車を止めろと言った!」
「一瞬のことなので、否定も肯定も……」
「嘘つけ、確信犯だろう!」
拓海の怒鳴り声は、内臓が元気な証だ。エアーバックを蹴り上げる足は、二本とも動き、両手も体とつながっていた。
「よかった……」
「まだ終わっていないぞ。救わなきゃならない人間はどうした?」
拓海の声に凛はシートベルトを外し、脱出を試みるがドアが開かない。すると、窓をジグザグに削る音が響き、まだらな景色から銀次郎が顔を出す。一気にドアが開き、引きずり出されると毛布を持って出迎えたのは、峰岸だった。
「驚いたね~本当に崖から飛んで来たよ」
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