第9話  飛 ぶ 2

「驚いたね~本当に崖から飛んで来たよ」

 峰岸は毛布を頭からかぶせ、凛の背中をさすった。

「あんた、けがは? どこか痛いところはないのかい?」

「わたしは平気。おばさん、拓海がまだ中にいるの。それに、車は? あの人を助けなきゃ……」

「みんないるよ。あんたの仲間がちゃんとついているさ」

 車からまわり込み凛が背伸びをすると、「凛ちゃんは無事よ――!」と叫ぶ銀次郎の声が聞こえる。見えたのは、はじめの背中だ。銀次郎の声にスコップを高く上げ合図を送る。その横に祐気と祐衣の姿も見えた。


「ドアが開いたぞ――! 誰か手を貸せ――!」

 はじめの声に凛は走り出す。美千代の車は腹を背にして埋まり、雪の壁が車道ギリギリのところでくい止めている。エアーバックは血にまみれ、シートベルトをしていた痕跡こんせきはない。はじめに抱きかかえられた美千代の顔は腫れが酷く、窓ガラスのひび割れと額の傷が重なった。

「京香、毛布だ!」

「用意してあるわよ!」

 手早く敷いた毛布に包まれ、口から吹き出した血が美千代のダウンを汚す。凛が手を握ると氷のような冷たさで、指先はピクリとも動かない。

「そんな……」

 つぶやいたあと、凛の手が美千代から離れる。その手を握ったのは京香だった。


「諦めちゃだめでしょう。ちゃんと声をかけなさい」

「だって、手が冷たくて……息が……」

「大丈夫、あなたもここから息を吹き返したの。ちゃんと戻って来たでしょう? だから、ここにいるでしょう!」

 京香の声に体が震えた。

「名前を呼ぶの、戻って来るまで呼びなさい!」

 一年前も同じ景色が、この場所にあった。意識が消えかかるたびに、連れ戻したのは京香の声だ。目を開ければ襲ってくる痛みに生きることを諦め、人の騒がしさで、また痛みと戦う。

 誰も諦めてはいなかった。馬乗りになった祐衣が、渾身こんしんの力を込めて蘇生そせいを試みる。祐気の人工呼吸と息を合わせ、二人の額に汗がにじんでいた。


 戻って――!

 凛は心に念じ美千代の手を握る。声がかれるほど、名前を叫んだ。息が切れるほど、痛みの世界に呼び止めた。いま、翔に会ったとしても許しはもらえない。武と悦子を山中に埋める道を選んだ翔の悲しさと、真実を伝える約束が残っている。

「目を開けて、開けなさいよ! まだ、言っていない話があるの……あなたはそれを聞く義務があるの――! わたしはこの街で幸せになる。悔しいでしょう? 悔しかったら戻って来てよ!」


 凛は美千代の手で涙を拭く。同じ言葉を繰り返しては顔をのぞき、色を失くした唇が動くことを祈った。

 助けて、翔――――

 凛は力なく空を見上げる。やがてサイレンの音が響き、救急車が国道を横切る。凛が目で追っていると、指の動きを手に感じ取った。

「美千代さん」

 開いたのは右目だった。額から流れ落ちた血が目尻を伝い赤い涙を流す。凛が名前を呼ぶと美千代の体が震え出した。

 街をおおう雪雲の流れは速まり、風向きが変わる。凛と美千代に吹き込んでいた海風は、『生きよ』と泣いていた。


「もう、大丈夫……」

 美千代の体から降りた祐衣がつぶやく。首筋に手を当て、凛を見てうなずくと救急車を出迎えに走り出した。

 凛は祐気に肩を抱かれても、美千代の手を離すことができない。「凛ちゃん。大丈夫だよ」と、祐気に背中をなでられ涙がでた。

「あとは、僕達に任せてよ」

「祐気、急いで!」

 祐衣は、タンカーで運ばれた美千代を追い駆け、救急車に乗り込む。凛と目が合うと親指を立てて見せた。

「誰が蘇生したと思っているの? ちゃんと助けるから病院で会おうね」

「ありがとう……」

 祐衣に深く頭を下げてから、雪に腰を下ろす。横倒しになった車に寄りかかる拓海を見つけ、おいでおいでの仕草で呼びつけると、屈んだどころで肩に寄りかかった。


「おまえさ……」

 拓海の顔つきに、甘えたがる体を戻した。

「俺が行かなきゃ、どうするつもりだった?」

「それは……まわし蹴りで美千代さんのナイフを払い、車に乗り込む前に頸動脈けいどうみゃくを締めあげ、気絶をさせます」

「気絶しなかったら?」

「そのときは……助手席に素早く飛び乗り、ハンドルを奪い合いながらオロロンラインをカーチェイス?」

「で?」

「車の性能をフルに生かし、当初の予定であるカーブ手前でドリフトを決めて、一件落着らくちゃくするつもりでした」

「そんな運動神経があるなら、違う人生を歩いているだろう!」 

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