第7話 来 訪 3 翔の心
「美千代さんは、気がついていますか? 翔は死に場所を探しに、小樽に来ました」
「雪、もっと激しく降らないかしら」
「翔は、わたしを殴ったところで、あなたが救われないのを知っている。あなたが愚かで悲しいから、死にたくて、わたしを追いかけてきた」
凛の声に、美千代は空から視線を外した。
「あの子が、死ぬ必要なんてないのよ」
「あなたは宝と言った息子を追い詰め、自分の怒りを収める道具に使った。人の死を望む人間を母と呼ぶ翔の気持ち、分かりませんか?」
「黙りなさい……」
「幼いころの翔は優しかった。いつだってわたしの味方で、親に叱られた日は泣きやむまで頭をなぜてくれた。その手に拳を握らせたのは、あなたでしょう!」
「黙りなさい」
「親だからって、子供の人格を奪う権利なんてない。翔を返して、優しかった翔を返しなさいよ!」
「黙れって言っているのよ!」
頬を打つ美千代の手は冷たく、かじかんでいるせいか力はなかった。二、三歩よろけると肩で息をする。微かに香るのは線香の匂い、雪にまわされ凛にまとわりつく。
「どうして、凛さんが生きているのよ……」
「翔がとっさに、対向車を交わしたからです。後部座席の子供を見て無意識にハンドルを切った。幼いころの翔とよく似た男の子でした。あなたの言う通り翔は優しい。だから……だからあなたの罪を背負って、小樽に来たんじゃない!」
「もう、いい……」
「よくない! 翔の最期を聞いて……翔の体は跳ねあがって、フロントガラスに叩きつけられた。まるで人形のようでしたよ。飛び散った血で翔の顔が分からない……あれは、あなたのために流した涙ですよ!」
凛の叫びに反応するかのように、風の音がうなる。凛の声に耳をふさぎ美千代が顔をそむけた。
「もういいって、言っているでしょう!」
「だめ、まだ伝えたい話があるの」
横殴りの雪に美千代の姿が霞んでいく。よたよたと、車に寄りかかる影だけが見えた。この一年、後悔を感じない日はないだろうと、凛は背中を眺める。忘れ形見の翔を犠牲にした愛情に、小さな背中が泣いていた。
「美千代さんは、これから長い時間をかけて、わたしの親と翔に詫びてください。過去は清算するものじゃない、背負っていくものです。わたしも、翔の姿を背負って生きていきます」
「――凛さんは、まるで別人みたい。もう、怯えていた顔じゃないのね」
「はい……あなたは、まだ孤独を続けますか?」
凛が近づくと、美千代は車のドアを開けた。しかし、運転席に座らず、ドアに寄りかかり、名前を呼んでもうつむいたままだ。凛がのぞき込むと横から差し込むライトが揺れ、美千代の手元で光る物を映し出した。
「もう行かなくちゃ、あの子が呼んでいるの」
美千代の口が動いた瞬間、うしろから腕を引かれ、正面には黒い影が立ちはだかった。
「まったく、よく似た親子だ……」
「――拓海?」
返事はなかった。よろける拓海を支えきれず、一歩後ろに下がると短いうめき声が耳をかすめる。拓海の肩越しに見える美千代の顔は青白く、にぎり締めていたナイフの剣先は血にまみれていた。
「いや――――!」
ナイフは雪に放り投げられ、血のついた手で美千代がドアを閉める。荒れ狂う雪は一年前と同じだ。体を屈める拓海を引きずり、美千代の車から距離を取る。走り去る車から守るように拓海を抱きしめた。
「刺した……拓海を刺した!」
「脇をかすっただけだ」
「だって、血が……」
「とっさに素手でナイフを握った。引けば切れるのは当たり前だ」
「痛そう……」
「そうだよ。すごく痛いんだよ!」
血のついた拓海の手が、凛のマフラーをつかんだ。
「貴様、おふくろの電話がなかったら、ここに飛び散ったのはおまえの血だぞ!」
「――拓海でよかった」
「『バカ野郎!』と締めたいが、そんな暇はない。追い駆けるぞ」
拓海が立ち上がると、右手を伝った血が雪を汚して行く。腕をつかまれても、凜は足に力が入らなかった。
「しっかりしろ! あの女を救いたくて、来たんだろう? そんな奴が震えてどうする。おまえがハンドルを握れ、俺の手じゃ無理だ」
拓海が差しのべた手を、凜はつかんだ。
「いいか? あの場所までの近道を教えてやる。ただし、道はアイスバーン、ブレーキペダルはひとつだ。瀧川の母親と心中する気なら俺も連れて行け」
脇腹を押さえながら、拓海があごを使って合図を送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます