第6話  来 訪 2 憎しみ

「その顔、悦子さんにそっくり。わたしがこの世で一番嫌いな顔。あなたもそうでしょう?」

「――それでも、わたしの母親でした」

「いいお母さんよ。いくらあなたの居場所を聞いても教えてくれないの。何が結婚よ、冗談じゃない。凛さんは幸せになっちゃだめ」

「そんな理由ですか……」

 凛は凍える指をさすりながら、ポケットに手を入れた。

「わたしが訪ねた日、美千代さんは家にいましたよね?」

「聞きたい?」

「できれば……」


「あなたのお父さん、床に倒れていたわ。わたしは、悦子さんに招き入れるように言ったのよ。それなのに、あなたを追い返すから寿命が縮んだの」

 美千代の笑い声に風の音が重なり、凛の記憶を刺激する。

 両親に結婚の許しなど、もらいに行く気はなかった。しかし、祝福は一人でも多い方がいいと拓海に諭され、あの日、実家に向かった。

 何も変わっていない――

 顔をしかめた悦子を見て、凛は感じ取った。玄関ドアに立ちふさがり、敷居をまたぐどころか爪先の侵入も許さない。『帰りなさい!』と怒鳴った声は、今となれば悲鳴に聞こえる。


 きっと、あの人は母親だった―― そして、多分この人も――


 美千代が悦子をののしる言葉は、リピート機能で鳴りっぱなしの唄のようだった。とうに聞き飽きた曲を、惰性だせいで耳に打ち込む感覚で、闇の唄は凛の心の中にもひそむ。アレンジは違うが、母親に対する憎悪は同じだった。

 すべての不幸を誰かのせいにしないと心のバランスは崩れ、生きる力が生まれない。血の繋がりなどないが美千代の姿は、昔の自分によく似ていた。


「ねえ、凛さん。あの人が聖職者だなんて、聞いて呆れるでしょう? 結婚して小学校も変わって、ようやく切れると思っていたのに、まだ続いていた。しかも、あなたを生むなんて、あの女はどうかしているのよ!」

「そうですね……」

「あなたの父親も見て見ぬふりよ。子供を授かれば、夫婦関係がよくなるとでも思っていたのでしょう。愚かだわ……」

「はい……」

「あなたは知らないでしょう。翔が生まれてもあの人は抱きもしなかった。わたしは病院で見たのよ。あの人はうれしそうな顔をして、あなたを抱き上げていた。わたしの産んだ子より、あんな女の……」


「美千代さん、わたしと翔は……」

「聞きなさい! あの女は翔に夫を重ねて見ていたのよ。いやらしい……きっと悔しかったと思うわ。生んだ娘はどう叱ったところで、わたしの息子に敵わない。あの子は頭がいいの。わたしの宝だった……」

 美千代が空を見上げると、凛も同じように顔を上げた。翔のために涙を落としたのは一年前と同じ。感情を表に出さない翔が、あの日、ハンドルを握りしめ泣き叫んでいた。


『あの人を止められなかった』

 その言葉の意味を知り、凛の意識が遠のく。ハンドルが雪に取られ、叫んだ悲鳴も、拓海の名前を呼ぶ声さえ失う。血の海と化した居間で笑っていた母親を語りながら、翔は泣いていた。

「凛が悪い」その言葉が、「助けて」と響いた。あの日、五年ぶりに見た翔は、母親の姿に怯え限界だった。


 高校時代、みずから命を絶てば、翔は必ずあとを追ってくる。いつも、そんな気がしていた。翔との絆は生きるために必要だった。バランスを取りながら凛の依存が翔を守り、拳をあげることで美千代から凛を守っていた。

「翔も道具じゃないよ」

 凛の声に翔の肩が揺れる。アクセルを踏み込むと車体は横滑りを繰り返し、何度も中央分離帯の壁にぶつかる。シートベルトを外す翔の姿に凛は涙を落とした。

「わたしと一緒に逝きたくて、小樽に来たの?」

 ハンドルを握る手の震えで答えを知る。翔の手に触れるが体温は感じられない。人の温もりに背中を向けた月日が、翔の体を凍えさせていた。


 凛は翔の髪に触れ、肩に顔を寄せる。オレンジ色の中央を押し、胸元のシートベルトを外すと、止めたのは翔の手だった。

「もういい……本当は、凛の顔を見るだけでよかった」

「翔?」

「母に伝えて欲しいことがある。凛にも教えたいことがひとつ。聞いてくれたら平野のところへ返す。急所を外してあるから心配はいらない。傷は僕の嫉妬だよ。『一生大事にして』と伝えて」


 翔が笑った。それは、忘れてしまうほど幼いころの笑顔だ。車は幾つものカーブを超え、荒れ狂う雪の中を走り抜ける。風の泣く声で翔の言葉が聞き取れず、凛は黙ったまま横顔を見ていた。

「凛、聞こえた?」

「翔……」

「もう一度言うからちゃんと聞いて、雪がとけたらあの教会で……」

 その続きをもう一度、今度はすぐにうなずく。ふたたびハンドルを握り直し、凍りついた道に視線を戻す時間を送りたい。


 凛は空に向かって、何度も翔に詫びた言葉をつぶやく。見つめ合う時間が数秒短ければ、翔の命を救えたかもしれない。風が飛ばし切れないほど涙があふれ、「ごめんね」と凛は空に手を伸ばす。荒れ狂う雪を握りしめると、いつまでも空を見つめている美千代に視線を流した。

「美千代さんは気がついていますか? 翔は死に場所を探しに、小樽に来ました」

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