第5話  来 訪 1 悲しみ

「そんな事があってはならない……そんな悲しい話は……」


 正美の声は震えていた。


 以前、拓海から聞いた凛の姿に『わたしは道具じゃない』と叫んだ言葉が蘇る。


 もし、逢坂の勘が正しければ、子供の人生を狂わせたのは親の身勝手な思いや憎悪だ。二人をふりまわし、無垢むくな笑顔を消した人間に、正美は悔し涙を流した。


「『生まれてはいけない存在』昔、凛ちゃんが言っていたの」

「瀧川親子に取って、父親を奪った憎悪が、形になったと言うことでしょうね」


「あの子に罪はないでしょう」

「罪はなくても、これから罪を犯せば同じです」

「――そうね。凛ちゃんをわたしのところに返して、あの子は大事な娘なの」


「探します」

 逢坂が一礼すると、携帯片手に忙しなく部屋を歩いていた山口が駆け寄ってくる。 山口の耳打ちに逢坂の顔つきが変わった。


「羽田に降りていないって、どういうこと?」


「今、連絡があって、凛さんは自分名義の航空チケットを、ネットで転売したらしく、その飛行機には二十代の女性が二人、そのほかは札幌敬老会の団体です。ビデオを確認したところ彼女は飛行機に乗っていません」


「それって、立派な犯罪よね」


「とにかく、凛さんは東京に来ていません。それから、もうひとつ……」


 山口が指を立てると、正美の携帯が揺れた。

 発信元は非通知、正美が耳を澄ませると風に混じり鐘の音が聞こえていた。


「凛ちゃん……凛ちゃんでしょう?」

《――すごい。息づかいでばれちゃった》

「あなた、どこにいるの?」


《心配いらないよ。ちょっとね、人と会う約束をしているの。その前に、お母さんの声が聞きたくて……あのね、お母さんのまわりに、おまわりさんがいる?》


「うるさい刑事が二人いるわ」

《よかった。もう大丈夫だから、安心していいよ》


「何を言っているのよ。帰ってらっしゃい。拓海と一緒にお母さんのところに帰って来なさい」


《どうしても、許せない人がいるの。翔の言葉を伝えないと、あの人も救われない。それが終わったら、三人でカレーを食べようね》


「凛ちゃん!」 

《わたしね、正美さんのことが大好きです》


 凛の言葉に、正美は声を出せなくなった。


 クラクションの音が背後に聞こえ、携帯が切れる。

 人差し指を立てたままの山口をにらみつけ、正美は胸倉を持ち上げた。


「どうしてくれるのよ! わたしの娘に何かあったら、生まれたことを後悔させてやるから!」


「脅迫ですが聞かなかったことにします。それより、言いづらい話をもうひとつ……瀧川の母親の所在がつかめません」


 その言葉に正美が手を緩めると、逢坂がわり込み


「警官はどうしたの!」

 と怒鳴りつけた。


「朝八時にテレビのスイッチが入ったらしく、確認はあえてとらなかったそうで、

宅配業者の呼び鈴に応対がないのを不審に思った警官二人が確認したところ……」


「タイマーだったのね?」


「はい、もぬけの殻です。凛さんは正美さんに危害がおよばぬよう、瀧川美千代の行動を封じていたと思われ……」


 山口の説明を聞いて、正美は立っていられなくなった。


 フラフラと床に腰を下ろし、座卓についた手を支えに肩を震わせる。

 テレビには雪に埋れた千歳空港の滑走路が映し出され、午後の便が欠航になったニュースが流れていた。



  ◇



 やまぬ雪も、あるのかも知れない――


 凛が空を見上げると、雪のベールの向こうに十字架が映る。

 木々に囲まれた敷地の中で、逃げ場を失った雪が教会の扉を叩く。


 マリア像の前にできたかまくらに、芯が折れたろうそくが二つ。

 あかりを灯せと語りかけてきた。


 放り投げられた携帯は雪の中に埋れ、あっという間に姿を消す。


 上から踏み付けているのは、雪と同じ色のスノーブーツだ。凛は首に巻いたマフラーを緩めて顔を出すと、深くお辞儀をした。


「もう、来ないと思っていました」


 風に舞う雪が美千代の顔を横切り、表情を読み取れない分、優しく見える。正面から目を見るのは、久しぶりだった。


「凛さんが邪魔をするから、仕方がないでしょう。あなたのせいで翔の誕生日を祝えなかった」


「正美さんを傷つけることが、プレゼントですか? 翔は喜ばない……」

「別に誰でもよかったのよ。あなたが苦しむ人なら、誰でも」


 美千代の言葉に、凛はマフラーを口まであげ肩をすぼめる。


 教会へ続く細い路地には、美千代が乗り着けて来た車が見える。ライトに照らされた場所だけ雪が踊っていた。


「凛さん、辛そうね」

「かなり……堪えています」


「あなたは、いつもそんな顔をしていなきゃだめよ。弱くて、悲しくて、生きる力がない凛さんじゃないと困るの。それなのに、あの平野親子が手を貸したりするから、いつまでも生きている」


「そんなに憎いですか?」

「ええ、あなたが自ら命を絶つのを楽しみにしていたのよ」

「知っています。中等部の頃からですよね」


「『徹底的に傷つけなさい』って言ったのに、あの子はすぐ手を抜く。翔は優しい子なのね」


「翔は、あなたの道具じゃない……」


 凛は、美千代をにらみつけた。

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