第14話  疑 念

 その夜、十時を過ぎた頃、凛が以前暮らしていた長屋に明かりが灯る。六帖一間には、膝下までのダウンをはおり、頭からショールをかぶった逢坂が震えている。人の気配が消えた長屋は、ストーブをつけても外の気温と変わらなかった。

「平野さん、私物のない部屋を見せられても、何の意味もないのよ」

「見たいと言うから鍵を開けておいた。用がないなら俺は帰るぞ」


「――用はあるわ。一時間待っても、彼女の話が聞きたいもの」

 逢坂は段ボールに腰をかけ、手帳をポケットから出すとボールペンをカチと鳴らす。書き難さは天下一品で、警察署のマスコットキャラが入ったボールペンは、上司からもらった勤続十年のプレゼントだ。

「わたしは、好きで小樽に来ている訳じゃないの。これでもけっこう忙しいのよ」

「なら東京に帰れ」

「帰りは、彼女と一緒だったりして……」


 逢坂は顔も上げずに言い放ち、ページをめくる。二月の余白には、同僚の山口から聞いた正美の話が書き記されていた。

「それで、彼女の様子はどうなの?」

 逢坂は、拓海の返事を催促さいそくするように顔をあげた。

「協力するって言ったのはあなたよ。記憶を戻して潔白けっぱくを証明するって、吠えていたでしょう?」

「凛は無関係だ」

「彼女は穏やかな人間じゃない。あなたも知っているはずよ。同情はするけど万引きに暴力事件、近所でも有名な家と聞いたわ」


「だから何だ」

 壁に寄りかかったまま、拓海がにらみつけた。

「あなたとの結婚を反対され、感情が抑えられなくなった。そんなところかしら」

「――凛は人に恵まれなかった。ただ、それだけのことだ。幼い頃に、どんな人間と出会うかなんて人は決められない。潰れていく奴は多いが凛は違う。あいつは人を傷つけたりしない」

「たいした自信よね」

 逢坂は拓海の顔を眺めたあと、ボールペンをカチッと鳴らして胸ポケットにしまった。


「あなたと旅行に行く前、彼女は実家を訪ねている。防犯カメラの映像も、言い争う声も事実なの。入れ代わりに来たのは瀧川よ。車は多摩川方面に向かったことだけは分かっているわ。その後、浅倉夫妻を見た人間はいない。言っている意味が分かりますよね?」

「瀧川に聞け」

「平野さん!」

 逢坂が立ち上がると、拓海は背中を向けストーブを消す。炎は一度色を変え激しく燃えてから煙を出した。


「瀧川は、あと始末しまつをさせられたのよ。それなのに違う男と小樽旅行って、誰だって追い駆けて刺したくもなるわ」

「瀧川を疑え、穏やかじゃないのはあいつだ」

「評判のいい青年よ。彼女の母親は、あなたより瀧川を気に入っていたみたい」

「娘を虐待する男を気に入っていたのか? おかしな話だ」

「動機がないわ」

「探せ、それがおまえらの仕事だろう。協力はした……でも、凛の記憶は戻らないで、幕だ」

「ちょっと~」

 逢坂の声と同時に、拓海が電気を消す。乱暴に引き戸を閉められ、部屋は闇の中だ。くすぶるストーブだけが、ぼんやり明るかった。


「感じの悪い人ね……」

 逢坂は独り言をつぶやきながら、かばんの中で揺れる携帯を取り出す。正面に並んでいるのは、さっきまで腰をかけていた段ボールだ。携帯の声に返事もせず逢坂は見つめていた。

「ねえ、山口君?」

《――先輩、いるなら返事をして下さいよ》

「平野さんのお母さんが送った段ボールって、ここにあるけど、差出人は『浅倉悦子』だった?」

《あたりまえじゃないですか》

「正美さんは達筆なの?」

《下手じゃないけど、右上がりの癖字ですね》

「送ったのは段ボールだけ?」

《いいえ、拓海さん宛てに封書を出していました。差出人は平野正美です》

「ふ~ん」

 と言いながら、逢坂は段ボールを上から見下ろした。


「全部、送り状がはがされているの。それもかなり乱暴に破っているわ。ひどく腹を立てている感じがする」

「逢坂さんみたいですね」

「――わたしなら、カッターで刺すけど?」

《受け取ったのは彼女だとすると、封書を見れば筆跡鑑定ができちゃいます》

「そうね。どうやら幕は下ろせないかも……」

 逢坂は山口の《幕?》の声が聞こえても気にせず携帯を切り、かばんに仕舞しまう。その動作で風が動き出し冷気が体にまとわりつく。震える手でボールペンを握り、『浅倉、覚醒かくせい』と手帳に書き足し、逢坂も長屋をあとにした。

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