第13話  色をなくしたバラ

「どけって言ってんだよ!」

 叫んだ瞬間、凛の呼吸が止まる。制御できない怒りに自分自身が怯えている。拓海の手がゆっくりバットを伝い、手首に触れると凛の体は震え出した。

「出て行って、これはわたしとあの女の話なの……」

「なあ、凛? 俺と一緒に家へ帰ろう。おまえの母さんが待っている」

「何を言ってるの……」

「荷物はあとで取りにくればいいさ。いつもみたいに三人で飯でも食おう。バットなんていらないだろう? ここに置いていけ」

 拓海は笑っていた。それは、数時間前と同じ笑顔だった。


「今日もカレーにするか?」

 バットに張りついた手をさすり、はだけた胸の青あざに拓海の手が触れた。不条理な者と戦った傷も恨む心も、拓海の笑顔ひとつで癒えていく。

 帰りたい――

 正美の母性が恋しくなった。拓海に抱きあげられると、腕を首にまわし凛は身を預ける。手の力が抜け、落ちたバットが床を転がった。

「凛は俺が預かる。文句はないな」

 拓海の視線に、武はその場に屈み込む。

「好きにしてくれ……」

 と壁に寄りかかった。


「学費は払う。どこでもいいから連れて行け。俺達夫婦に子供はいなかったと思わせてくれ」

「勘違いするな、おまえらのためじゃない。凛を加害者にしないためだ」

「もう、こんな騒ぎはたくさんだ!」

 武が吐き捨てるように言うと、拓海はにらみつける。生んだことを忘れたいと悦子が泣いた。凛には何も聞こえない、何も見えない。拓海の首筋に寄り添い目を閉じる。

 門に向かう小道を歩くと、枯葉を踏みしめる音が響く。季節が違えば悦子の愛情を一身に受け、ツル状のバラが咲き乱れる庭だ。凛はアーチを通り抜けるまで、けっして目は開けなかった。


 ねえ、翔? 狂っているのは、わたしも同じだった―― 


 仰向けになったまま、凛は空に手を伸ばす。星が歳月を語りはじめると、我先にと記憶があふれ出し、耳をふさいでも眠りにつくことはない。

バットを握った感触を、手が覚えている。ふり下ろしたバッドに、ためらいはなかった。


 悦子への怒りを握りしめ、最後の扉を開けるとオロロンラインを走る車が見える。翔と交わした言葉すべてが、凛を泣かせていた。やがて、一本道に車のライトが揺れ、駆けてくる拓海が見える。夜空に舞うのは、二日後に控えた『雪あかりの路』を祝う花火だ。

 雑木林に客の歓声が響き、抱き合う二人に向けた祝福に聞こえる。それは、儚く消える花火と同じ、たった数分の幻だった。

  ◇

「凛の様子が、変なんだ……」

 店に戻って来た拓海が、ぽつりとつぶやいた。誰に対して言ったのか分からず、常連たちは返事をしない。カウンターの中にいる京香が拓海にコーヒーを差し出した。

「あの子は寝ているの?」

「何を聞いても『大丈夫』としか言わない。一生懸命笑って、泣きながら寝た」

「そう……」

 京香はカウンターに一枚の写真を置いた。グレーの制服に身を包み、うつむき加減の凛と翔が映っている。拓海は手に取ることもなく、黙って写真を見つめていた。


「わたしが、しつこく銀ちゃんに聞いたの。怒らないでね」

「凛に取って、一番思い出したくない時代だ」

「そうね」

「凛は瀧川が怖い。だから俺を思い出せなかった」

「――でも、あの子は思い出したのよ。翔さんと戦って、ちゃんとあなたを見つけた。わたしたちは、自分の目を信じることにしたの」

 京香の言葉に拓海は顔をあげる。横から背中を叩いてきたのは祐衣だった。

「みんな、いろいろ抱えているよ。わたしは不倫、はじめさんはもっとすごいよね?」

「おお、聞きたいか? 俺の壮絶な過去。きっと、映画になるぞ」

「少年院の話なんて、誰も見ないわよ」

 京香がカウンターを叩くと、はじめは苦笑いで返す。一斉に笑い出す常連たちの顔を、拓海は眺めていた。


「凛は小樽に来てから、人に恵まれている。凛を助けてくれてありがとう。ずっと、言いそびれていた」

「平野先生よ~何でも、一人で抱えちゃ身が持たね~ぜ」

「そうそう、わたし凜ちゃん好きだよ。だって、わたしを心配して岡島先生に文句を言ってくれた」

「凛が?」

「先生が脅されたって笑っていた。心無い人は、誰かのために吠えたりしない。素っ気ないふりで、凜ちゃんはいつもそう」

 祐衣の言葉に常連たちはうなずく。拓海は「ありがとう」とつぶやくが、顔をあげられなかった。

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