第11話  狂 人 1

「不思議なの。今は翔も怖くないし、怯えていた自分がバカみたい」

 休憩中、ハンバーガーをほおばり凛が言う。

「親だって、先に怒鳴れば黙る」

 と、お茶を口にした。向かい合わせの拓海が腕をめくると、凛は慌ててその手を払いのける。長袖の下には無数の切り傷が隠してあった。

「また、ガラスをわったのか?」

「違う……」

「いいか? 人を傷つけて意志を通せば、やっていることは瀧川と同じだ。どんなことがあろうと、おまえの親だろう」

「拓海は、何も知らない……あの女は……」

「凛!」


 拓海と目を合わさず、凛は素早く袖を直した。ひるんだ親の姿に味をしめれば、を通すのは簡単だった。自分に傾いた力関係で親に対しての恐怖は薄らぐ。ただ、気にさわれば自分を見失い、怒りに火がついた心のおさめ方を凛は知らなかった。

「親のことは、拓海に関係ないから」

「今のおまえが怖いのは、自分じゃないのか?」

「そうかもしれない……」

 凛はうつむきながら、ポツリと言った。

「本当は家を出たい。あの家にいると抑えられなくなる」

「逃げずに向き合えば、違う顔も見えてくる。向こうだって、手探りでおまえを見ている」

 拓海の手が重なると、一瞬だが心を荒らす風がやんだ。

「家で夕飯でも食うか? 自慢じゃないが、おふくろのカレーは旨いぞ」

 拓海の笑い顔に誘われ、凛はうなずいた。


 東京の残暑も落ち着き、十月の風は秋の香りが漂う。拓海の就職も決まり、路地ではじめる万歳三唱に凛も手をあげる。八社目で内定をもらった関東自動車学校は、「拓海の天職」と仲間達が笑っていた。そして、凛が退学届けを出したのは十一月だった。


 停学以来、一度も袖を通さなかった制服は、翔の写真と共にクローゼットへ仕舞い込む。親の理想から離れて見れば、自分の理想がぼんやり見える。思い出のない校舎に別れを告げ、校門へ向かうレンガの路でふり返ると、生徒玄関で見送っていたのは翔一人だけだった。


「凛ちゃんはすごいよな~高卒認定試験合格か?」

 田島は、ポテトを揚げながら拓海に問う。

「ああ、専門学校の奨学金が取れたらしい。頭のいい奴は得だよな」

 拓海は、鉄板で肉をひっくり返しながら笑った。

「おふくろは、俺より凛がかわいいみたいだ。こんな賢い子が欲しかったとほざく」

「いっそ、嫁にもらうか?」

「向こうの親が許さないさ。片親育ちはお気に召さないようだ。凛を送っても顔も見せない」


 拓海は笑いながら、携帯をポケットから取り出す。夜の八時に店を出た凛は家に着くと必ず連絡をしてくる。通常は田島の車か、拓海の仕事が終わるまで平野家の留守番だが、今夜は西日暮里駅まで母親が迎えに来ると聞いていた。

 短い時間でも、待ち合わせの境内で、親子の会話ができればいいと拓海は願う。

 血の繋がりが裏目に出たのなら、修復するのは、やはり血の繋がりだろうと――


「おかしいな……」

 拓海が、携帯を開いて首をかしげた。

「どうした? 凛ちゃん携帯に出ないのか?」

「うん……何か様子が変だ。悪い、ちょっと出かけて来る」

 拓海は手早く制服を脱ぎ、店を出て行く。凛を呼ぶコールは五回目で繋がるが、人の気配を感じ取った直後、携帯は切れた。

 通りに響くのは、車のクラクション。そして、救急車のサイレン。そのすべてが拓海の不安をあおる。西日暮里駅へ流れる学生を追い越し、赤い鳥居を目指した。


 神社の境内をおおう木々は十二月の風に揺れ、命尽きた順に空へ舞う。草むらに着信を知らせる携帯が転がり、凛が手を伸ばすと翔が落した石で光は消えた。

「しつこい男だね……平野拓海。今は忙しいって言えば、よかったかな」

 首筋に翔の吐息がかかると、凛は顔をゆがめた。はだけた胸には、翔がつけた赤紫色の烙印がにじむ。切れた唇の血は固まり、強引に挑んでくる翔に抵抗した傷が、体中についていた。


「素直に足を開けば、殴ったりしないよ」

「いやだって、言っているでしょう……」

「凛は、僕に逆らっちゃだめ。忘れないでね」

「翔……お願いだから……」

「お願いだから、『ゴムは使わないで』って? 分かったよ。子供ができたら面白いもんね」

「いや――――!」

 と叫んだ瞬間、翔の手が口をふさぐ。指の隙間から噛みつくが、往復の平手打ちに凜は口を離した。

「翔……あなたは狂っている」

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