第10話  救済の鐘 2

 数日後、凛の家に面した通りには、ほうき片手に立ち話をする主婦の姿があった。ゴミステーションを片づけながら、凛の部屋を見ては耳打ちをしていた。

「ちょっと聞いた? 浅倉さんの娘、昨日も荒れたらしいわ」

「そうそう、毎晩うるさいのよ~大人しい顔して怖いわね」

 凛の停学は親とのみぞを深め、希薄きはくな家族関係を浮きりにする。同時に仮面夫婦の絆はもろく、怒鳴り合う声も響き渡っていた。

 息の詰まる家庭に凛の居場所はない。停学が開けても学校に戻れない。制服を見れば、水を飲むだけで吐き気が襲った。


 逃げ込んだ先は、平野親子の暮らす公団住宅だった。正美は登校拒否を凛にとって必要な時間だと笑う。居座ることに文句も言わず、家事一般を凛に手伝わせ、「凛ちゃんがいると楽ね」と頭をなでる。その手は凛が味わったことのない母性だった。

「おふくろは甘い! 何が『凛ちゃん』だ。親の出した学費を無駄にするような奴は、『鼻くそ』で、じゅうぶんだ」

「鼻くそ……」

「ちょうどいい場所に、ホクロもあるしな」

「ふり返りやすいあだ名がいい……」

「いいか、鼻くそ。まずは、その引きこもりの性格を何とかするぞ」


 その日、拓海が連れ出したのは大学だった。途中、地下鉄で『修徳学園』の生徒を見かけ、凛は拓海の背中に隠れる。すると、拓海の帽子が頭に乗り、次に来るのはリュックだ。帽子を目深にかぶった顔が地下鉄の窓に映ると、おたく好きの大学生に見えた。

「平野君? ここは大学であって、登校拒否の高校生をかくまう場所ではありません」

「みんなに紹介しよう。経済学部一年の浅倉凛さんだ」

「だから……平野君?」

 田島の声に背中を向け、拓海は凛をサークル仲間に紹介する。大学構内に人里離れた廃墟はいきょがひとつ。破れかけた紙には『マニュアル車保存研究会』と記されている。部員五名はすべて四年生で、今季限りのサークルだった。


「運転にメリハリのないAT車など邪道じゃどうだ!」

「そうだ、そうだ!」

 拓海の声に部員たちは拳をあげる。一拍遅れで凛もあげていた。

「マニュアルトランスミッション、略してMT。エンジンの巨大なパワーを感じ、ミッションを思い通りに操る。運転の楽しさは技術の高さだ!」

「よく言った、平野!」

勇敢ゆうかんなる同志たちよ、マシンとの一体感に万歳をしようじゃないか!」

「おお――――!」

 その後、凛を巻き込み部員の万歳三唱が廃墟を揺らす。何が楽しいのかよく分からないが、車の性能だけは詳しくなった。


 次に連れ込まれたのは、拓海のバイト先であるハンバーガーショップで、ふたたび田島の冷たい視線が拓海に向かう。

「平野君、アルバイト先の私物化は、やめましょう」

「みんなに紹介しよう。今日から働いてもらう浅倉凛さんだ」

「勝手に人事を決めるのは、いかがなものかと?」

 田島の声に拓海は反応をしない。不審な顔つきの従業員に凛が頭を下げると、満足気にうなずいていた。

「頭はいいが、労働スキルはゼロだ。足を引っ張られたくないなら、命がけでこいつに仕事を教えろ。苦情は全部俺が聞く」


 その日から、凛は拓海とおそろいの帽子をかぶり、ひたすら肉を焼く。田島の心配をよそに凛の物覚えはいい。三日目で師匠の田島を抜き、見事な肉の焼き色を仕上げ、何より手早い。『修徳学園』はアルバイト禁止だが、今さら校則は気にならなかった。

 厨房には、いつもラジオが流れ、裏方に徹する凛の楽しみでもある。拓海からもらった馴染みのある言葉は、夕方になるとラジオから響いていた。

『いやと言えば未来は変わります。さあ、勇気を持って、明日の風をわたしと一緒に変えましょう』


 声の持ち主は、『こころ先生』と言う女性心理学者だった。番組名は『お悩みダイヤル五五六』夕方、五時五十六分からはじまり、凛は六時十分にもらい泣きをする。劣悪れつあくな家庭環境の悩みが自分と重なった。

『あなたが動けば、風は変わります』

『こころ先生』が言った。明日を変える風は、自分が動くだけでよかった。ただ、換気の悪い家は動いても黒い物がまわるだけで、明日の風など家には吹かない。

 凛に取って家とは、寝るために立ち寄る場所になっていく。いくら笑うことを覚えても、扉を開ければ凛の顔つきはがらりと変わる。その姿に武と悦子は距離を取り、腫れものになった娘と視線を合わせることもなかった。

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