第9話  救済の鐘 1

「もしかして、家は血の海なのかな」

「殴ったのはガラス……」

「なんだ~詰まんない」

「もう、わたしにかまわないで! わたしにだって、意志はあるんだから」

「ないよ。僕等は大人の道具だからね」

「わたしは違う!」

 バットを投げつけると、翔のうしろで植木鉢の砕ける音がした。

「塾は辞める。翔と同じ大学なんか行かない、二度と来ないで!」

「僕は許さない。多分、君の母親もあの人も……」

「わたしに関係ない。どうして、わたし一人が犠牲にならなきゃいけないの」

「凛が生まれて来たからだよ。分っているなら僕から離れていくな」

 翔がにらみつけても目をそらさなかった。凛は一歩二歩と距離を取り、裏木戸の鍵を外す。足は震えていたが言葉をさらけ出した分、心の悲鳴は聞こえなくなった。


 閑静かんせいな住宅街は、窓ガラスのわれる音で騒然となっていた。浅倉の一人娘が起こした騒ぎが、やじ馬たちの口を伝う。人の波に逆らい身を隠すように凛は走り抜け、五軒先の車庫前で息を整える。すると、徐行してきた車のドアが開き、凛は助手席に引きずり込まれた。

「平野君……誘拐も万引き同様、立派な犯罪です」

「俺の家まで送ってくれ。この子、ガラスでケガをしている。家には優秀な看護師がいるはずだ」

「マジで誘拐するのか?」

「あおったのは俺だからな。正しい反抗のしかたを教え直す必要がある」

 会話の間中、凛はかかとを拓海の足に落とし、右手で髪をわしずかみにする。駒込こまごめの公団住宅A棟二階、部屋に着いた頃には拓海の髪の毛が逆立っていた。


「そちらのかわいいお客様は、誰なの?」

 出迎えた平野正美は首をかしげる。凛は薄手のスウェット姿で裸足だった。胸元は第三ボタンまで外れ、鎖骨さこつのあたりに青あざが見えている。肘を伝う血と頬のすり傷を見て、正美は拓海の胸倉をつかみ、背負い投げで床に沈めた。

「拓海に何をされたの!」

「だから違うって!」

「拓海に聞いていない。わたしは、このお嬢さんに聞いているの!」

「いいから、さっさと傷を見ろよ!」

 言い争いは二十分近く続いた。凛の傷は血が固まりはじめ、止血の必要はなくなる。2DKの部屋に香るのは消毒薬の匂い。ガラスの破片がトレーに移るたび、カランと音を立てた。


 指先はバットを握っている感覚が残っていた。親に罵声を浴びせたせいで喉も痛む。自分を見失い、凛は何を叫んだのか覚えていない。指先が震え出し、正美に「痛む?」と聞かれても、首をふるのが精一杯だった。

「ガラスは抜いたから、心配いらないわ。それで、凛ちゃんはどんな怪獣かいじゅうと戦って来たの?」

「親……」

「手強い?」

「わたしの親は、すぐ手が出るの」

「諭すより簡単だからね。取りあえず一瞬で黙るわ」

 正美が手際よく包帯を巻くと、手の甲の痛みは治まった。

「壊れたのがガラスでよかった。凛ちゃんやご両親なら大変だったのよ」

 テーブルに置いたままのココアは、うっすらとまくが張り、口をつける暇なく凛の目が潤む。「いろいろあるよね」と手を擦る正美は優しげで、凛の涙は止まらなかった。


「おまえの反抗など、ガキそのものだ」

 拓海が奥の和室で、布団に横たわった。

「暴れる以外、知恵はないのか?」

「平野君、大きな声を出すと腰に響きますよ」

「きっかけは窓ガラスでいいが、親を変えたいなら、まず自分が変わることだ。自分の行動に責任が取れて自立の一歩となる。泣いたところで未来は変わらん!」

 言い切ったところで、拓海は腰をさする。

「通訳をするとね、困ったことがあったら、この、お兄さんを頼りなさいって、言うことだよ」

 と田島が冷やかす。凛の顔を見てうなずく拓海に「当りか?」と笑い出した。


「何が自立よ。偉そうによく言うわ。凛ちゃんに説教できる人間なの? 就職の内定も、もらえないくせに」

「もらえないんじゃない。郵送が遅れているだけだ」

「七社全部?」

「ああ、俺のように優秀な人材を社会がほっとく訳がないだろう。五十を超えて、『家宝は寝て待て』の意味も知らないのか? しわが増えればいいってもんじゃないぞ」

 正美の口を制し、目を丸くする凛の顔を見て拓海が微笑む。

「ガラスをわらなくても、親はこんな風に黙らせろ」

 と自慢気だ。数秒後、拓海の腰を踏みつけ今度は正美が微笑む。「はじまった」と笑う田島の横で、かけ合いの速さに凛の涙が止まる。畳の上で降参のポーズをとる拓海は、いつか見た少年の笑顔でおどけていた。

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