第8話  悲鳴の記憶

 拓海が踏みつけたのは、凛を呼ぶ自転車のベルだった。何度も落としたかかとで丸い形はゆがみ、ハンドルからちぎれ落ちる。呆然とする翔の胸倉を持ちあげ、拓海がにらみつけた。

「天才だか、特選クラスだか知らないが、おまえがおもちゃにしていい人間なんていないんだぞ! 教科書丸暗記する前に人の痛みを学べ!」

「平野、止めろ!」

 うしろから羽交い絞めをする田島の腕をふりほどき、拓海はコンクリートに翔を叩きつける。かかとをみぞおちに埋め、体を屈める姿を確かめてから、凛に視線を流した。


「分ったか? おまえが怯えていたのは、こんなに弱い男だ。俺は一度しか手を貸さないぞ。おまえが意志を持たない限り悩みは解決しない。今日と同じ日が、明日も続くだけだ。それがいやなら、現実と戦え!」

 拓海の声に、凛の体が震えた。通りには騒ぎを聞きつけ人だかりができ、気の荒い大学生が、いたいけな高校生を虐めている絵が完成していた。

「このお兄さんって、怖いでしょう~今のうちに、走って帰りなさいね」

 と、田島は笑いながら拓海に退場をうながす。やがて、人の壁は翔の視線をさえぎり、通りを渡る風の向きが変わった。


「何かあったら『助けて』と言え! おまえの悲鳴をまわりに聞かせろ。人を巻き込め、それが自己防衛だ」

「平野、いい加減にしろ! バイトに遅れるって」

「意志を持て、受け身が心を弱くする」

「分ったって!」

「俺がやり返してやる! 一人で悩むな――!」

 拓海の手が、何度も凛に向かっていた。息を潜めていた神殿から吹く救いの風が、拓海の声を借り凛の髪を揺らす。信号を渡り切っても叫ぶ姿に、凛は初めて声をあげて泣いた。

 

 翌日、東京は雨だった。コンビニの雑誌コーナーには、拓海一人が立ち読みをしている。凛は息を整えその横に立つと、「助けて……」と絞り出す声でささやいた。

 拓海は素知らぬ顔でページをめくる。凛が雑誌に手を伸ばすと、袖口から新しい青あざが見える。泣きながら雑誌をかばんに入れた瞬間、拓海の手が腕をつかんだ。

「俺の前で万引きとは、いい度胸だ」

 拓海の手に初めて触れた夜、正面の窓には筋状に雨が流れ落ちる。二人の姿をゆがませ、窓に映った凛も同じように泣いていた。


 支払いをすませたことで、店長は示談じだんと言ったが、拓海は速攻で警察に通報した。凛は店主が何を聞いても黙秘もくひつらぬき、拓海も素性を口にしない。保護者確認が取れない以上、制服から学園に通報がいくのは覚悟のうえだ。後悔はないと言えば嘘になるが、壊れていく自分の悲鳴を聞かせるには、この方法しか思いつかなかった。


 凛の処分は一週間の停学。万引きの流れを打ち明けても、翔に事情説明を求める教師はいない。学校の名を汚した生徒は凛であって、翔の名前を出すことを嫌う。校舎に救いの風は吹かないが、成績でしか仕訳ができない教師を、初めて哀れとさげすんだ。


推薦すいせんは白紙だと? 俺に恥をかかせやがって!」

 浅倉武が投げつけたウイスキーグラスは、凛の頬をかすめ花瓶を倒した。家では王様のようにふる舞い、外に出れば下僕げぼくに成り下がる。グラス三杯が豹変ひょうへんする目安だった。

 擁護ようごするべき母親の悦子は、夫の怒りが凛に向いたすきを狙って居間をあとにする。凛の視線の先には怒鳴る以外、威厳いげんを保てない、哀れなサラリーマン教師がいた。


「なんだ、その顔は? バカなおまえのために、どれだけ金を使ったと思っている! 俺は教師だぞ。娘が万引きなどいい笑いものだ!」

 凛は、投げつけられた灰皿を避けない。額にぶつかり散乱した煙草の灰が床を汚した。

「おまえは毎晩、瀧川に何を教わっている? 勉強だけじゃないだろう。これだから片親育ちは品がない。母さんのお気に入りだろうが、俺は前から気に入らなかった」

 延々と続く武の罵声も、台所で悦子が向けた背中も小さく見えた。親と思わなければ自己中心的な男と女だ。凛は無言で居間を出ると、数分後、金属バッドを手に持ち顔を出す。ベランダのガラスを砕くと、吠えていた武の声は一瞬で止んだ。


「何てことを……」

「恥をもうひとつ増やしてあげる。この家の本当の姿を近所に教えないとね」

「――そ、それで俺を殴るのか?」

「怖い? ……わたしもそうだった」

 凛は武をにらみつけながら、グリップを握る。われた鏡に昨日の自分を見つけ、窓ガラスには自由を奪った武と悦子が揺れている。凛はその姿が映る物すべてを砕き、悲鳴をあげながら居間を歩く。はねたガラスの破片で頬が切れ、落ちた血が凛の凶器の引きがねを弾く。網目状にひびの入ったテレビには、泣きながらバットをふり上げる凛が映っていた。


「凛はすごいね。それで親を殴ってきたの?」

 バットを引きずり、裏口から出て来た凛を拍手で迎えたのは翔だった。

「もしかして、家は血の海なのかな」

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