第7話  ベルの記憶

「ふりでいいから声を出しなよ。まるで人形を抱いているみたいだ」

「人形だもの……」

 本堂裏手の草むらで、翔が果てるまで凛の体は揺れる。湿った草は、毎夜、重なる体で人の形を崩さない。まつられている三体の神を恐れ、風に揺れる木の葉が泣いている。凛は許しをうように右手をあげるが、逆さに見える神殿から救いの手は伸びて来なかった。


 もう、いやだ――

 体中から聞こえる悲鳴が騒がしい。それは、翔の前で体を開くときも、万引きに手を染める瞬間も――

 ルールは簡単だった。翔の決めた店で、指示された商品を手に入れればいい。翔はゲームを楽しむ感覚で汚れていく凛を眺め、試すのは服従する姿だった。

 罪の意識は痛みの前で無力だ。かばんに入れてしまえば悲鳴は収まる。ただ、吐き出せない言葉で体は船酔いの感覚に襲われ、独り言と嘔吐を繰り返す凛の心は限界だった。


「いやなら、いやと言え」

 通りすがりに声をかけられ、凛は足を止めた。拓海は、よく見かける大学生だった。塾を終えた凛はコンビニ前の交差点で、バイトに向かう拓海といつもすれちがう。仲間達に囲まれ、同級生の就職内定を祝うためなのか、万歳三唱が聞こえる。少年のようにおどける姿が印象に残っていた。

「おまえが死んでも、誰かが喜ぶだけだ」

 と返された日、自分が何を口走っていたのかを知った。

「意志がないから、つけ込まれる。断らないから次の痛みが来る。今日の悩みは、昨日の自分だ」


 拓海の声に足を止めても、凛はふり返ることができない。通りの向こうでハンドルに腕をおいて見つめる翔の視線が痛い。凛を呼びつけるベルはいつも二回通りに響く。その音にふり返ったのは拓海だった。

「おまえの悩みが呼んでいるぞ。『いや』と言えば、未来は変わる」

「何も知らないくせに……」

「おまえは知っているのに、通りを渡るのか?」

 口は返せなかった。人と距離を取ることを命じられ、気がつけば一人だった。翔に怖れを感じても、孤独を嫌う心が離れることを許さない。それが、依存と言う名の服従関係でも、うなずけば翔のキスは優しい。


 激しく鳴るベルにうながされ凛は歩き出す。横断歩道を渡る途中でふり返ると、軽蔑けいべつを含んだ顔で見送る拓海が見えた。

 仕方がない―― 仕方がないよ――

 その日から、すれ違う瞬間に、声をかけて来る拓海に向かって唱えた呪文だ。

 道徳的な言葉ひとつで、何が変わる――

 いつも、そうつけ加えた。しかし、翔の視線を交わし、肩が触れるたびに心は揺れる。「気をつけて帰れ」の言葉が胸をしめつけ、コンビニに行けば拓海の咳払いが、凛のモラルをあおっていた。


「平野君? おまえは、しつこい男だね」

 コンビニの書籍コーナーで、凛の右隣に立つ男が言う。拓海のアルバイト仲間で、名前は田島たじますぐる。以前、就職内定の万歳三唱に、照れながら頭を下げていた人物だった。

「おまえは、世直し大学生か?」

「犯罪を未然に防ぎ、青少年を正しく導くのが大人の役目だろう。もし、現行犯で見つけたら、俺は容赦ようしゃなく警察に突き出す」

「なんども言うが、こちらのお嬢さんは男がいるぞ」

「知っている……」


「じゃあ、諦めろ。瀧川翔君と言って特選クラスの天才だ」

「天才ね~」

 と言いながら拓海の視線は、凛がかばんに入れる途中の雑誌だ。きびしい視線に耐えかね、凛は雑誌を元に戻す。すると、正面の窓を翔が横切る気配に、凛はとっさに二人から距離を取る。物に執着しゅうちゃくのない翔は、たとえ戦利品を貢いでも速攻ゴミ箱行きだ。ただ、手ぶらで帰る以上、店の裏手はいつもより闇が深かった。


「最近、うるさいハエが飛んでいるけど、あの男達は誰さ?」

「知らない……」

「嘘はいけないよ」

 コンビニ裏手の防犯カメラの死角で、壁に叩きつけられ凛の体が弾んだ。首にまわされた手に爪を立てると、翔は前よりも強い力で凛の頭を壁に打ちつける。

 もう、いやだ―― 

 なんど飲み込んでも、咽まで込み上げる言葉が、凛の中で叫んでいた。


「分かったね? 僕以外の男と親しくしちゃだめだよ。僕は頭の悪い子は嫌いだ」

「もう……いや………」

「ん? 今なんて言ったの?」

「いやなの……」

「よく聞こえないよ」

「もう、『いやだ』と言ったんだ!」

 暗闇から伸びてきた拓海の手は、翔の襟元をつかむ。おおいかぶさっていた体を軽々と引き離し、うしろに追いやる。その勢いで翔の足はふらつき自転車ごと倒れた。

「誰……?」

「うるさいハエだ」

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