第6話 痛みの記憶
「どうして、こんなことするの!」
走り出した車の中で、凛は翔の頬を打つ。髪をつかまれ窓ガラスに叩きつけられながら、翔の手に爪を立てる。
ハンドルを横から握り、力まかせにまわすと、車はバランスを崩し、道路脇の雑木林に落ちて行った。
凛は拓海の名前を叫びながら、クラクションを鳴らした。
助手席のドアを揺らすが、雪に埋まり開けることができない。背後から伸びてくる手に首をつかまれ、凛の息が止まる。座席に押し倒され、見上げた翔は青い顔をしていた。
「どうして、あの男と小樽に来た? 怒らないから言ってごらん」
「何を言っているの?」
「凛が離れるから悪い……だから、あんな悲劇が起こる。でも、もういいよ。きっと誰にも見つからないさ」
「いい加減にして!」
凛は翔の手に噛みつく。
平手打ちされた勢いで頭がドアにぶつかり、意識はもうろうとなる。生暖かいものがこめかみを伝う感触に手を触れると、自分の血だった。
「レンタカー壊しちゃった。確か平野の車があったよね? おいで、車を乗り換えるよ」
「いや――――!」
後部座席へ引きずられ、凛の体はハッチバックから叩き落される。襟元をつかんだ翔の手は青白く、凛が逆らうたびに足がみぞおちに埋まった。
「僕の言うことだけ聞いていればいいのに、凛はいつからそんな悪い子になった? きっと平野のせいだ。凛は素直な女の子だったのに……」
「わたしは、翔の人形じゃない!」
「平野なんかと結婚しなくても、凛は僕が守る。大丈夫、昔みたいに仲よくできるさ」
「離して! 拓海のところへ帰りたい。拓海――――!」
荒れ狂う雪に凛の声はかき消され、抵抗を試みては翔の力にひれ伏す。
謝るまで襲う平手に、気力をなくし涙も出ない。しかし、唇が触れた瞬間、凛は目を開き翔に噛みつく。服従と支配で交わしたキスは血の味がした。
『凛は昔から、僕のお人形でしょう?』
違う。今は違う――
一度呼び出した翔は、凜が消えることを願っても離れない。
封印されていた記憶を引き連れ、凛を取り囲む。横殴りの雪は巨大なスクリーンとなり、氷の世界で眠る女が映し出され、目を開けると
お母さん――?
凛が手を伸ばすと、優しげに笑う正美の姿は消え、雪の世界に香るはずのない匂いが漂う。やがて、映し出されたのは、母親の悦子が
それは、凛が何より嫌いな、ツル状にまとわりつく花だった。
◇
「凛! 支度はできているの? 塾に遅れるでしょう!」
悦子の声は、バラに見惚れる通行人を爪先立ちにさせた。
教育者の夫婦に取って、待望の娘の誕生は同時に学歴重視の家庭を築く。成長と共にピアノの音が流れ、習い事に向かう車には行儀のよい凛が乗り込む。
明るい外観と裏腹に、笑い声の聞こえない家だった。
塾と習い事で埋まる毎日が、凛の笑顔を消していく。『
「この成績じゃ、特選クラスは無理ね。言っている意味が分かるでしょう? いつまで経っても、翔さんと同じクラスになれないの」
悦子の放り投げた成績表は着地予定のテーブルから、じゅうたんに落ちた。
「クラスは別でも……」
「だめよ! あなたも特選狙わなきゃだめなの。まったく、翔さんと同じ塾に通わせているのに、どうしてできが悪いの」
「遺伝子……」
頬を打たれるスイッチは、高等部に入った頃からよく見えていた。
愛情ゆえの痛みと言い聞かせても心は従わず、悦子をにらみ返す時間が徐々に長くなる。
口を返せない心は根深く『あなたは緑が似合う』そんな言葉で救われるような、闇の色ではなかった。
悦子が特選クラスを諦めたのは高校二年の春、凛が悦子の背を抜いた頃だ。
そして、凛の独り言がはじまったのは高校三年の夏だった。
「凛、今日も遠まわりして帰ろう」
「今日は……」
「おいでって言われたら、来なくちゃだめでしょう?」
翔の自転車は薄暗い墓地通りへ向きを変える。
二人が通っていた塾は西
「まだ終わらないの?」
「普通は喜ぶんじゃないの? 『もっと』とか言ってよ」
「――まだ?」
山手線の音にまぎれ、翔の平手打ちが乾いた音を
凛の体には、青あざが無数に残り、翔に逆らうたびに増えた傷は癒える暇もない。髪をわしづかみにされ、凛の顔が痛みでゆがんだ。
「ふりでいいから、声を出しなよ」
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