第5話 氷の迷路 2
数日後、午後六時をまわった頃、お散歩には拓海以外の常連が顔をそろえた。凛が自慢したかったのは、二日前に札幌で交付された運転免許証だ。
「ねえねえ、今度の休みに、わたしの運転でドライブ行こうよ」
凛の声に、常連たちのコーヒーを飲む手が止まる。互いに譲り合う態度に、「やっぱり、誰も乗せてあげない」と、凜は車のパンフレットを開いた。
「お凜さん、新車を買う気ですかい?」
「だめ?」
「いや……うん……そうですね~」
「安全って、お金で買えるんだよ」
凛が不機嫌な顔で、各自動車メーカーのパンフレットを並べた。どれも四輪駆動の大型SUV車で、本体価格は五百万を超えている。京香がパンフレットを開くと、凜がお気に入りを指さす。それは、丸が四つ重なった高級外車だった。
「目を覚ましなさい!」
と京香に怒鳴られ、パンフレットはゴミ箱に沈んだ。
頬を膨らませた凛の姿に、常連たちが笑い出す。何を言っても、何をしても心は自由だ。『あの子はいつもそう――』と、言われる心地よさが、凛の声を弾ませる。「また、もらってくるから、平気だもん」と、ぼやきながら凜も笑っていた。
「ねえ、凛ちゃん。外車もいいけど現実的な話をしよう。頼まれていたパンフレットを持ってきたよ」
「温泉?」
「そうだよ。あと、町内会長が早く朝里温泉も決めて欲しいって」
「ああ、優勝の宿泊チケットね。あとで見る」
祐気から凛が受け取ったのは、すべて小樽の有名温泉のパンフレットだった。一通り外観を確かめるが、景色は一致するものの、見覚えのない建物ばかりだ。
記憶の鍵は、以前、泊まったホテルにある――
確信したのは、拓海の表情を見てからだった。いつも毅然とした拓海が、その話を持ち出すと態度が変わる。翔に引きずられながら見た景色が、記憶を繋ぐ糸だった。
「小樽じゃないのかな」
と言いながら、『優勝おめでとう』と書かれた祝儀袋を手に取る。宿泊チケットは七施設から選べ、凛と拓海以外は予約済みだ。どこも代わり映えしない部屋と食事内容にため息をつく。
山々に囲まれ、朝里温泉街の一番奥に位置するホテルは、八階建てのレンガ作りだ。新館と旧館に別れ、一昨年の暮れにリニューアルオープンと書いてあった。
「なんだ、なんだ~そこにするんですかい? 確かにきれいなホテルだが、
はじめが
「免許取得三日目で、左ハンドル……?」
「戻って来たとき、右になっていたりしてね……」
祐衣が、はじめの背中をなでる。納車は先月の末だ。本人さえ運転をするのに気を使う。しかも、ローンは一回も払っていなかった。
「拓海君? 大変よ」
銀次郎の声に、常連たちの笑い声が止った。
「――聞こえた? だから、『ホテル・サンピアーザ朝里』よ。去年、二人で泊ったホテルでしょう? きっと何かを……」
と言いかけ銀次郎は、携帯を耳から外す。乱暴に切られた不快音に、「まったく、バカな甥なんだから」
と、口走ったとたん、店の空気が変わった。
「――平野先生が、銀ちゃんの甥?」
首をかしげる祐衣の隣で、京香が立ち上がる。
「あの子が大変って、何よ。銀ちゃんが言っていた、過去の話なの?」
詰め寄る京香の顔を見て、銀次郎は携帯を閉じた。
「——時間はあるのかしら? ちょっと長い話になるわ」
銀次郎は営業中のプレートを裏返し、グラスを四つカウンターに並べる。「お酒の力を借りないと無理ね」とグラスに氷を落とした。
◇
朝里川温泉地区に入ってすぐ、はじめの外車は鉄クズになった。必要以上の踏込みに、雪を噛むことなく、タイヤが空まわりをする。馬の悲鳴のような声をあげ、力のわりに根性がなかった。
車を乗り捨て凛が走り出すと、ホテルへ続く一本道は狭くなる。両脇にそびえる雑木林が風に揺れ、舞い上がった雪は、天に向かって降っているように見えた。
街灯のまわりだけがこの世で、通りすぎると闇の世界が広がる。雪におおわれた木々が人の形に見え、凛は泣きながら次の光を目指す。視界が晴れたのは数分後、高台にそびえ立つレンガ色のホテルが顔を出した。
ここだ――
駐車場の真ん中で、凛はホテルを見上げた。すでに手足の感覚はなく、体が冷えた分、心の世界がよく見える。首にまとわりつくのは翔の手だった。雪に点々と落ちた血は拓海の指を伝っていた。心に問うように凛は目を閉じる。封印されていた世界に入り込むと、薄笑いの翔を、記憶から引きずり出した。
「どうして、こんなことするの!」
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