第4話  氷の迷路 1

 銀次郎所有の四軒長屋から人の気配が消え、一週間が経つ。はじめは『スズラン理容美容室』の二階で京香と同居をスタートさせ、離婚が成立してすぐ、祐衣も岡島医師のもとへ飛ぶ。祐気は小樽看護専門学校に合格を果たし、経費削減さくげんのため実家に戻った。

「三ヶ月しか暮らしていないけど、ちょっと寂しいね」

「店には顔を出すだろう。毎日会えるさ」

「そうだね……」

 凛は長屋に残していた荷物整理の手を止め、六帖一間をくるりと見まわす。小樽に来た日に凛を出迎えた家具や電化製品は、はじめの店に戻り、中央にじんる石油ストーブを拓海が消すと、つんとした匂いが部屋に充満じゅうまんしていた。


「残りの荷物は、来週だな」

「ねえ、ねえ、教会を見てから帰ろうよ」

「またか?」

「あと、レストランから海を眺めて、小樽運河を歩くの」

 長屋に鍵をかける拓海のうしろで、凛の声は弾んでいた。

「夜はベッドで……」

「いびきをかいて寝る」

「違う。今夜は、どんな接待をしてくれるのかな~と考える」

「おまえは、そう言うことばっかり、思い出したんだろう?」

「――激しい接待も、思い出した」

 耳元に息を吹きかけられ、拓海の手元が狂う。鍵穴の的を絞れず抗議の視線を送るが、凜は笑いながら拓海の背中に寄り添っていた。


 拓海との暮らしは穏やかで、小樽運河に立ち寄るたび、増えていく小物は凜を癒す。今日、手に入れたのは、色ガラスでふちを飾った写真立てだ。ツリーを背後に、仮免許証を見せびらかす凜と常連たちが映る。

ただ、『思い出せない記憶は、凜にとって必要がない』拓海に諭されるたび、必要のないはずの記憶が騒ぎ出していた。

「ねえ、拓海?」

 凜はベッドルームから、リビングボードをぼんやり眺めた。

「もう、できないぞ」

「そんな話じゃないの。この部屋に初めて来たとき、『居心地がいい』って思った。それって……」


「おまえが選んだ家具や食器だ。全部、東京から持って来た」

「やっぱり、そうなんだ。よく、あの親が同棲を許したね」

「強引にさらって来た」

 拓海の言葉に、凛は首をかしげた。

「それは思い出せないのか?」

「お母さんは、何も言っていなかった」

「俺が口止めをした。混乱するとめまいを起こすだろう?」

「他には? もっと、わたしを教えてよ。二人はどこで暮らしていたの? いつから? ハンバーガーショップで、バイトをしていたよね?」

 凛は拓海の顔をのぞき、寝たふりの体をゆする。毎夜、この時間になると質問攻めが拓海を襲う。「俺は、明日仕事だ」と背中を向けると、脇腹をくすぐった。


「頼むから寝ろ」

「『起きろ』って、毎日キスしていたんでしょう?」

「今は寝ろ。いいか? 夜寝て朝起きろ。それを繰り返すのが正しい日常生活だ」

 拓海が布団にもぐると、凛の目が潤んだ。

「五ヵ月寝たから、もう眠りたくない!」

「じゃあ、五ヵ月起きていろ。絶対寝るなよ。ちょっとでも寝たら……」

 言い切る前に、凜は枕をふり下ろした。

「目が覚めなかったらどうしようって、夜は怖いの」

「朝が来たら目は覚める」

「拓海には、分からないでしょう? 氷の迷路をぐるぐる彷徨さまよっている感じなんだよ。そこには眠っている人がいて、わたしが通ると目を開けるの……」


「夢の世界だ。気にするな」

「『助けて』って呼ばれても、氷が厚くてわれないの!」

「もういい」

 拓海に抱き寄せられ、息が止まる。

『やまぬ雪はない』と言った、『こころ先生』の言葉が好きだった。

しかし、風がやみ、雪が小降りになった世界は、触れてはいけない感覚に襲われる。迷路を抜けると、過去の扉はすぐそこだ。ただ、差し込む鍵を見つけられない。

 なぜ、翔は小樽にいたのか――

 答えを知る拓海は、決まって口が重くなる。そこに、白か黒かを即決する顔はなかった。

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