第3話 兆し 3 蝉が鳴く
「小樽に行くって、どういうこと?」
「小樽で凛を待つ……」
「何を言っているの。今の凛ちゃんは、ちょくちょく発作を起こすし、翔さんのことを悔いて泣いているのよ。全部思い出したときに、あなたがいなくてどうするのよ」
「『思い出させるな』と言ったのは、ここの病院だろう!」
拓海の声に、看護師たちがふり返った。
「『今は無理』って、話でしょう? 誰が旅行して来いって言ったのよ。それに、あの子が小樽に行く保証なんてないの。いやな記憶が許さないと思うわ」
「凛は必ず来る。俺と過ごした記憶が呼ぶはずだ」
うつむいたままの拓海に、正美はため息をつく。すでに職場は同じ系列の自動車学校に決め、引っ越しの準備も整った話が終わる頃、意志の固さに止める言葉は思いつかない。
正美は財布から五万抜き取ると拓海に手渡す。昼に近くのATMで生活費を下ろしたばかりだった。
「
「凛のことだけど」
「いきなり小学生を
正美は拓海の肩を叩き、「これは貸よ」と笑う。すると凛の部屋のナースコールが響く。同僚の視線に手をあげ、正美は三〇二号室に向かった。
「お母さん! お母さん来て!」
正美が部屋に駆けつけると、ペットボトルのお茶が床に転がっていた。凛は泣きながらベッドで正座をしている。正美の姿を見て「怒らないで……」と震えていた。
「お茶をこぼしたのね。大丈夫よ」
「ごめんなさい、わざとじゃないの。手が滑ったの……だから、ごめんなさい」
「怒ってないから、心配しなくていいの」
正美がベッドに腰をかけると、凛は自分の頭をかばう。正美がその手を握ると「叩かないの?」と怯えた顔をする。正美は子供をあやすように頭をなで、胸元に抱き寄せた。
「あなたを叩く理由なんてない……だれも傷つけたりしないわ」
「今日は機嫌がいいの?」
「そうよ~すごい機嫌がいいの」
「お母さん、翔がいないの。翔はどこに行ったの?」
正美は拓海の気配を感じ、言葉に詰まる。松葉づえを指さし凛に笑いかけた。
「ねえ、凛ちゃん。新しいお茶を買いに行こうよ。お母さんと一緒なら平気でしょう?」
「お茶……」
「そう、自動販売機までお散歩しようね」
凛がうなずくと正美は松葉杖を用意する。持ち手の場所に
廊下を凛に譲り、拓海は壁に寄りかかる。すると、ゆるんだ巾着の
「――落としたよ」
拓海が巾着を差し出すと、凛は頭を下げてから手を伸ばす。かすかに触れた互いの手を、正美は見守っていた。
凛の指使いは鈍く、巾着を結び直しても紐は緩む。拓海は「俺がやろうか?」と凛の前にしゃがみ、きつく結び直す。「ありがとう」と言って歩き出した背中を、拓海の視線が追っていた。
「母さん……」
「分かっている。――あなたは小樽で待っていなさい。みんなで、あの子を歩けるようにするから」
「はい……」
「その代り、あとはあなたが守るのよ」
正美は、凛の呼ぶ声に笑いながら手をあげる。速足で拓海の前を通ると、横目に見えたのは、泣きながら頭を下げる姿だった。
気づかぬふりで正美は唇を噛む。自販機からお茶が落ちる音に「できたよ。お母さん、見ていた?」と凛は自慢気に手招いている。背中で拓海の
凛の元へ向かう途中、正美がふり返ると拓海の姿はない。廊下突き当りの窓から歓声をあげる
◇
「悪いわね。郵便局まで付き合わせちゃって」
「いいえ、今日は
「そう思うなら、二人にかまわないでね」
正美は宅配便の控えを四枚まとめて折り曲げ、かばんにしまう。山口は運転席に乗り込むと窓を開け「最後の質問」と言って人差し指を立てた。
「赤ちゃん返りは、どのくらい続きましたか?」
「三週間くらいかしら、自分で歩けるようになると言葉使いも変わったし、顔も落ちついたわ。この一年で、凛ちゃんは生まれ直した気がするの。眠っていた時間は、母親の体内にいたのかもしれないわね」
「なるほど……今は小樽で、大人の女性になったと言う訳ですかね」
「刑事のわりに、いいこと言うじゃない」
正美が笑うと山口は照れくさそうに頭を下げる。山口の送るという言葉に首をふり、車が走り去ると正美は空を見上げた。
郵便局内に流れていたのは、全国の天気予報だった。東京は快晴だが、北の街は吹雪のマークがついていた。雪に肩をすぼめた人が横断歩道を渡る映像を見て、二人が暮らす街の厳しさを知る。
昨日、凛の声は弾んでいた。笑っている拓海の気配も感じ取れた。せめて二人が見上げる明日は、東京のように穏やかな空であるようにと、正美は祈りながら歩き出した。
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