第2話  兆し 2 翔の影

「凛ちゃん、聞こえる? 目を開けなさい。拓海が待っているのよ!」


 タオルで汗を拭きながら正美は叫ぶ。


 その声に凛は赤子あかごのような鳴き声で答える。凛の爪が正美の手に食い込み、駆けつけた医師と同僚の力を借り、ようやく凛の手が離れた。


「平野さん、大丈夫? 血が出ているじゃない」

「わたしはいいの。それより凛ちゃんは? 呼吸はしているの?」


 同僚がうなずくと正美の体から力が抜け、床にふらふらと腰を下ろす。

 担当医師の「浅倉さん、聞こえますか?」の声に正美も顔をのぞき込む。 


 開けたのは左目だった。指先が正美を探している。ふたたび手を握ると、凛の目尻から涙がこぼれた。


「よかった……」


 正美は凛の体の震えを感じ、同僚に毛布を頼む。


 麻酔ますいから目を覚ましたように、急激に下がった体温が凛を凍らせる。唇は青く、次に開けた右目は充血していた。


「凛ちゃん、わたしが分かる?」


 正美の声かけに凛はうなずく。


「お帰り……よく帰って来たわね」


 正美が凛の手にすがりつくと、同僚が背中をさすっていた。


 やがて、廊下から聞こえるのは拓海を呼ぶ看護師の声だ。靴音は駆け足に変わり、病室へたどり着く。


「凛!」

 と呼ぶ声に、正美は顔を上げた。


 看護師の間をすり抜け、顔を出した拓海はすでに泣いていた。正美が手招いても近寄る足は鈍く、長い昏睡状態が拓海の心を震わせている。


「――拓海の勝ちよ。凛ちゃん、あなたのところへ戻って来たわ」


 正美は場所を拓海に譲ろうと立ち上がるが、凛は手を離さない。握る力が増し、手には血管が浮き出てきた。


「凛ちゃん、拓海が来たわよ」

「……翔を……翔を助けて……」


「凛ちゃん?」

「翔――――! 翔がまだ車にいるの……お母さん、翔を助けて!」


 凛は体を起こそうともがき、ベッドで泣きじゃくる。

 思い通りにならない体を揺らし、翔の名前を叫ぶ。


 正美は凛を押さえながらふり返ると、拓海が呆然ぼうぜんとした顔で立ち尽くす。ふり上げた凛の手はベッドに当たり、紫に変色していた。


「鎮静剤を打つわ。平野さん避けて!」


 看護師に追いやられ正美は壁に寄りかかる。

 半狂乱の姿に目をそらし、耳をふさぐ。

 病棟まで響く凛の声は、開けっ放しのドアから人の視線を誘い、その中央には泣いている拓海がいた。



「どうして……どうして、翔の名前を呼ぶ?」

「拓海、だめよ!」


 正美は走り込んで来る拓海を押え、正面に立ちはだかる。拓海の腕をつかみ、壁に追いやった。


「落ち着きなさい! 凛ちゃんは混乱しているだけなの」

「――あいつが何をしたのか、覚えていないのか!」

「分かっているから、母さんがちゃんと分かっているから!」


 拓海の伸ばした手は、凛へ向かっていた。


 その手を押さえる心苦しさに正美の目は潤む。この五ヵ月、許す限りの時間を凛に捧げ、誰よりもこの瞬間を夢に見ていた心が、正美には見える。


 駆けつけた男性看護師に連れ出され、騒がしかった病室に代わり、廊下には拓海の叫ぶ声が響いていた。




 凛の意識が戻って数日は、二時間目を開け、残りは眠るリズムだった。


 事故の記憶が蘇るたび、母を呼ぶ声が病室から聞こえてくる。その声は正美が顔を見せるまで続き、記憶の混乱と見立てた医師の指示で、正美は母親の代わりになった。


「拓海君には申し訳ないが、今は会わない方がいいな」

「このまま、俺を忘れろと言う意味ですか?」


「そうじゃない。君のことが過呼吸の原因になって危険だ。なぜ、病院にいるのか理解できないし、事故の恐怖が悪さをしている。年齢を聞くと、浅倉さんは八歳と答えた」


「俺は、八歳の凜も好きですよ」


 うつむき加減に拓海が答えると、横の正美が申し訳なさそうな顔で頭を下げた。 


「心の成長を待ちましょう。君はよくやっていた。誰にでも真似ができることじゃない。今は僕等に任せて、少し休みなさい」


「休むと、死にたくなる」


 拓海は吐き捨てるようにつぶやき、診察室をあとにする。向かう先は凛の病室だが、ドアに背中を預け、いつまで経っても中に入らなかった。




 数日後、同僚の看護師は、凛が書いた一枚の絵を正美に渡した。


 クレヨンの青で建物の輪郭りんかくを取り、道は黄色の丸が彩る。拓海に見せると、正面に飾られた十字架を見て目を潤ませていた。


「教会だ……きっと『富ヶ岡教会』だ」

「凛ちゃんは覚えているのね。その黄色は『雪あかりの路』かしら」

「この景色、二人で見たんだ」


「拓海を忘れる訳がないでしょう? 絵を書いているときは穏やかだって言っていた。あなたの記憶があの子を取り戻すのよ」


 正美は、拓海の背中をさする。看護師から「拓海君にあげるわ」の言葉をもらい、宝物を扱うように画用紙を抱えていた。


 拓海が次に顔を出したのは三日後、ナースステーションの前で、スーツケースを持った姿に、正美は首をかしげた。


「小樽に行くって、どういうこと?」 

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