第4章 覚 醒

第1話  兆し 1 目覚め

 この日、平野ひらの正美まさみの予想を超えて、滞在時間は長かった。家の窓を開け、こもった部屋に風をまわす。肌寒さより、暗い気配が漂う空気を正美は嫌った。

 家に入る姿を遠巻きに見ていた近隣住人は、正美をこの家の親戚と疑わない。凛の旅立ちを見送ったみなみ千住せんじゅの自宅には、『浅倉あさくらたけし』の表札が掛かっている。その横に悦子えつこの文字が並んでいた。


 正美はメモ用紙を見ながら凛の部屋のタンスを開け、冬物を手に取る。手早く段ボールに詰めると、ガムテープでフタを閉じた。

「山口さん? 『お手伝いしましょう』の一言もないなら、何も教えてあげないわよ」

 正美の視線は、凛の机を物色ぶっしょくする男へ向かう。語尾のきつさにふり返り、慌てて引き出しを閉めた。

「すみません。僕が下まで運びましょう」

「あら~気が利くのね。それじゃ、重い方をお願い」

「喜んで……」

 山口やまぐちたかしは正美に一礼をすると、段ボールを両手で持ち上げる。小柄な体格だが山口は筋肉質だ。年明けに行われた警察主催の柔道大会では、上位の成績にくい込む。二十六歳の若さを原動力に階段を下りて行った。


 居間を通る風は十分過ぎるほど、よくまわっていた。「冷えてきたわ」

と言って、正美が窓を閉める。リビングボードには写真が飾られ、凛の成長を記す。かっぷくのいい父親と、毅然きぜんとした立ち姿の母親に挟まれ、カメラから視線をそらした凛が写っていた。

「それでは、お話を伺えますか? 週に一度は、電話があると聞いていましたが」

のどかわきませんか? お茶でも入れましょう」

「水道って、止っていますよね?」

「そうなの。この家に来ると、トイレにも行けないの」

 正美は、かばんからペットボトルのお茶を取り出す。その横で山口は困った顔をしていた。


「僕は、凛さんを苦しめるつもりはありません。ただ、ちょっとお話を聞きたいだけですから、敵視てきししないでいただけるとありがたい」

「先週から息子と暮らしている。思い出したのは拓海のことくらいよ。電話は、のろけ話が多いわ」

「瀧川さんのことは?」

「あなたは耳が遠いいの? 『思い出したのは拓海のことだけ』って言ったでしょう」

「――確かに」

「楽しい思い出で満たしてあげないと、あの子は乗り越えられないのよ」

 正美は、お茶をふくんで喉を潤した。


「以前は、何を決めるにも承諾しょうだくの電話がかかってきた。でも、今は事後報告ね。母親の言葉に怯えることもなくなったの。少し、ほっといてあげてほしいわ」

「もうすぐ一年です。このままでいい訳がありません。血痕けっこんが残っている以上、ただの行方不明じゃすまないことは、ご理解いただきたい」

「チョコの食べ過ぎで、失踪しっそう前に鼻血を出したとか……」

 正美はお茶を一気に飲む。笑わない山口の顔を見て、机の上にペットボトルを置いた。


「冗談よ」

「みなさんのために言っています。もちろん、平野さんのご苦労も分かっています。失踪の鍵は凛さんの記憶だけでは、僕等も手が出せません」

「そうね。翔さんと最後に話をしたのは、凛ちゃんなのよね」

「はい。ご両親の行方を聞いているはずです」

 山口の言葉に正美はうなずく。ペットボトルのキャップをしめると、色をなくした庭を眺めた。窓をしめ切った途端、香るのは消毒薬の匂い。ベテラン看護師としてのキャリアが肌にみ込み、正美の体から看護師特有の香りを漂わせていた。


 正美が勤める『杏林きょうりんどう病院』は世田谷せたがやにある。凛の意識が戻った日、正美は午後六時までの勤務帯だった。日勤の仕事を終えると、正美はいつも三階の東病棟に向かう。拓海が顔を出すまで、必ず凛の病室をのぞいていた。

「凛ちゃん? もうすぐ、拓海が帰って来るわよ」

 正美が手を握って間もなく、凛の指先に震えを感じた。この日、握り返した凛の力は強く、痛みを感じるほどだった。

 凛の体は硬直こうちょくしたあとケイレンを起こし、正美は手を繋いだままナースコールを押す。吐いた物が気管に入らぬように体を横向きにさせた。

「凛ちゃん、聞こえる? 目を開けなさい。拓海が待っているのよ!」

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