第10話  凜の翼

 間違った――

 言い直そうとしたが、ナースコールを押す拓海の手が早かった。駆けつけた岡島医師に脈を取られ、目にライトを浴びる。その結果、窓際から見守る拓海に、言葉を贈るタイミングを外した。

 退院は二日後、喫茶店復帰はその翌日に果たす。外傷もないだけに目が覚めれば入院する意味もない。新光町住人の見舞いは連日で、寝ていられる気分ではなく、店に来た方がゆっくりできた。


 その日、開店と同時に顔を出した拓海は、いつもより目が鋭い。手に入れた記憶は、東京のどこかの街で同棲をしていた頃まで鮮やかだ。

「おい」

 と呼ばれても、凜は視線を合わせない。どこで打ち明けるかのは、ではない気がしていた。

「俺が誰だか分かるよな?」

「――もちろんです。あなたは昆虫採集が趣味の平野先生ですよね。いやだな~ちゃんと覚えていますよ」

 凛は笑うが、拓海はニコリともしなかった。


 その夜、凛はタンスの中から目につく服と下着を、かばんに詰め込む。次に基礎化粧品と歯ブラシを入れ、悲鳴をあげるジッパーの口をふさいで長屋を飛び出す。

「心配するかな」

 と、はじめの家をのぞくがあかりはない。おそらく今宵は京香の家だ。祐衣の部屋も人の気配がないことから、岡島医師と面会中と思われる。おまけは祐気だ。今日は悲しき夜勤と聞いている。要介護の老人の世話で、勤労精神を試されている時間だった。

「問題ない――」

 長屋に一礼してから朝里駅を目指す。途中、オロロンラインのカーブが見えたが凛の足は止まらない。広げた羽はすでに助走をつけている。長い眠りで動きは鈍いが、拓海の元へ飛ぶには十分な大きさだった。


 小樽築港駅徒歩五分、海沿いのマンション五階で呼び鈴を押す。出迎えた拓海の顔を見られず、凛はうつむいていた。

「来たな……記憶改ざん女」

「全裸で出迎えてくれると思っていました」

「ご心配なく。すぐに全裸だ」

 凛が顔を上げると、速攻で玄関へ引きずり込まれる。ふらつく足が拓海の靴を踏み、数センチ背が高くなった分、キスはしやすくなった。

 廊下にはダウンジャケットとかばんが転がり、脱ぎ散らかした服が居間のドアまで続いている。

 寝室にたどり着くまで、拓海を欲しがる気持ちを抑えられない。体にまとわりつく物をすべて脱ぎ捨て、拓海の腕の中にたどり着くと、凜は広げた羽を静かにたたんだ。


 その夜から数えて三日、凛の部屋にあかりはつかない。銀次郎は客が拓海一人になると、看板の灯りを落とす。風もなく静かな夜だった。

「ご心配を、おかけしました」

「心配なんかしていないわ」

 銀次郎はワイングラスを並べながら言った。

「それでどうなの? あなたは幸せになれたのかしら」

「かなり……」

「そう、よかったじゃない」

 ワインを拓海に差し出し、ひとつ席を開けて銀次郎も腰を下ろした。


「拓海君の言った通りになったわ。『凜は必ず俺を好きになる』だったかしら?」

「出会うことさえできれば、忘れていようが俺に恋をする。そんなの、初めから分かっていた」

「たいした自信ね。でも、嘘じゃない」

「どうも……」

 拓海は銀次郎に軽く頭を下げた。携帯の着信音が銀次郎の席で響き、「あら、久しぶりね」と声が弾む。

「――そんな、いいのよ~凜ちゃんがいて、わたしも助かるわ。ちょっと待って、拓海がいるのよ」

 銀次郎から携帯を受け取り、拓海は「どうも……」と言って、また頭を下げた。


「眠っていたのは三日くらいだから、心配いらないって」

《それならいいけど、拓海は? あなたは、大丈夫なの?》

「大丈夫だよ。それより大福ごちそうさま。凛が『粒あんじゃない』って、文句を言っていた」

《――あら? 凛ちゃんは粒あんが好きだったの? 知らなかったわ》

「母さん……」

 拓海が言葉を詰まらせると、銀次郎のワインを飲む手が止まった。

《何?》

「――もう少し、凛の母親を演じてもらえますか?」

《分かっているわ。わたしにとっても、娘みたいなものよ》

「ん……」

《最近、刑事が訪ねてくるのよ。騒がしくなったわ。あなたは、凜ちゃんを守るのよ》

「はい……凜から電話があったときは、宜しくお願いします」

 拓海は携帯を銀次郎に渡し、ワインで喉を潤す。叔母という名の叔父が、語るのは拓海と凜の暮らしぶりで、兄妹の世間話は途切れない。

九州にいる孫の話がはじまると、拓海は銀次郎に向かって深く頭を下げ、店を出て行った。

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