第9話  拓 海 2

「そんな……」

 京香が置いたコーヒーカップはソーサーを外れ、擦れた音を響かせる。その横で、はじめが首をかしげた。

「じゃあ~翔さんは、お凜さんの何だ?」

「そうよ。あの子は事故の日、車に乗っていたのよ。二人で小樽に来ていたんでしょう?」

「――確かに車に乗っていた。でも、翔さんは幼馴染で彼じゃない。事故のせいで、二人の記憶が整理されていなかったと思う」


「拓海君が泣いているって、そういう意味だったの……」

「だけど、拓海君に取って、記憶なんてどうでもいいみたいよ。何度でも出会って、恋をする気でいるわ」

 銀次郎はコーヒーをシンク台に置き、二人の顔を見て微笑んだ。

「あなた達は、『お似合い』だって、凛ちゃんが言っていた。わたしもそう思うわ。あの子にとって二人は大切な友人でしょう? 五ヶ月も寝るもんですか~会いたくて、すぐ起きて来るわ」

 銀次郎の言葉に、京香は目を潤ます。はじめに背中をさすられ「そうよね」とうなずいた。


 冬の空に満天の星が輝き、月あかりが凛の眠る病室に射し込む。

『いいかげんに起きろ。路上は五時間も残っている』

 その声に答えたいが、体の自由が利かない。解放されたのは、記憶だけで、凛は夢の中をさまよう。たどり着いた路地には幾つもドアがあり、そのひとつを開けると、笑い合う拓海と自分が見えた。


 季節は青々とした木々の色から見て初夏。大型スーパーの駐車場で買い物袋を抱えた拓海に向かって、「わたし決めた」と叫んでいた。

「決めたって、何を?」

「わたし、免許を取りたいの」

「交通ルールも知らないおまえが?」

「社会のルールも知らない人に言われたくない」

「俺の学校には来るなよ」

「わたしは、平野拓海先生に教わりたいの」

 拓海がリモコンで車のドアを開けると、凜は先に乗り込みハンドルを握る。助手席に手招く仕草に、拓海は頭をかいていた。


「ご指名ありがとうございます。仏の教官、平野拓海。趣味は昆虫採集です」

「昆虫採集が趣味の男が苦手な、浅倉です」

「嘘つけ~れているって顔しているぞ」

「正解です」

 笑い合う二人を見て、夢の中で凜も声をあげて笑う。やがて、季節を何度か逆走して秋の匂い。お揃いのファーストフード店の帽子をかぶり、ロッカー前のテーブルで、ハンバーガーをほおばる二人を見つけた。


「素直に『平野さんが好き』って言ってみろ? 気が楽になるぞ」

「言っておきますが、わたしの好みは繊細かつ温和な人であり、あなたのような非人道的な人は好みではございません」

「かわいくないね。これだから頭のいい高校出身は困る」

「バカな大学の弊害へいがいには、かないません」

 拓海のくわえたハンバーガーから、照り焼きのたれがポタリと落ちる。ツンと横を向く顔はまだ十代、四歳年上の拓海を、『就職が決まらない大学生』そんな目をして見ていた。


 無視を気取りながら、背中を追う視線は夢の中でも同じだった。拓海の人柄に触れ、恋に落ちた心が今の凛には分かる。

「小樽に行くの?」

「ああ、俺の生まれた街を見せたい。教会に小樽運河、ガラス体験も面白いぞ」

「いいね」

「予定は三泊四日だ。冬の小樽は寒いぞ~毛糸のパンツが必要だな」

「拓海もね」

 じゃれ合う顔も喧嘩をしたふくれっ面も、記憶はすべて絵本をめくる感覚だった。今を左手でめくり、過去を右手で開いて読み比べる。重なる台詞を見つけると、花丸をつけ何度も読み返す。表紙を見ると雪あかりの道が、夜空を目指していた。


 拓海――!

 凛が呼び止めても、夢の中の拓海は気がつかない。手を繋ぎ、寄り添い歩く背中を見て凛は泣き出す。すると、誰かに手をつかまれ、空の高みからはしゃぐ二人を眺める。やがて、目尻を伝う涙に目を開けると、握っていたのは拓海の手だった。

「……拓海」

 凛は右手で髪に触れ、その柔らかさを確かめた。名前を呼んでみるが拓海の眠りは深く、夢の中と同じ笑顔を見ることができない。

 目が覚めたら、何て言おうか――?

 拓海の顔を見ながら凛は問う。すると、高まる鼓動が耳に残り、頬も熱い。握っていた手がピクリと動き、体を起こした拓海を見て錯覚を起こし「いらっしゃい、平野先生」が第一声だった。

 間違った―― 

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