第8話 拓 海 1
「もういい、思い出すな!」
拓海に抱きしめられ息が止まる。点々と落ちた血は、車を追い駆けて来た男の指先から流れていた。
『春になったら、あの教会で式を挙げるか?』
『うん、富ヶ岡教会に決めた』
十字架を見上げ、冬の陽ざしに手を広げると指輪が見える。ブランドのロゴがダブルで刻まれ、ダイヤが中央に飾られていた。
翔がくれたんじゃない――
「あの指輪は……」
凛は体を起こして、拓海の顔を眺める。指先で唇をなぞり、手のひらで頬を包むと首をかしげた。
「――――拓海?」
凜の問いに、拓海の目は潤み目尻から頬へと涙が伝った。
「久しぶりだな……」
「拓海……」
凜の指先が涙を止めると、拓海が手をつかんだ。
「もう一度呼んでくれ」
「拓海と雪あかりを見た」
「一緒に見たな……」
拓海のうなずく顔を、凜は眺めた。レストランで二人の未来を誓った。あの日も午後から雪で、寄り添いながら小樽運河を歩いた。
記憶がメリーゴーランドのようにくるくるまわり、翔の姿がかすんでいく。やがて、速度を落とした景色に姿を見せたのは拓海の笑顔だった。
「あの教会で、式を挙げる約束をした……」
「そうだ」
「小樽には二人で……」
言い切る前に拓海の唇が重なる。下がりはじめた気温で互いの吐息が白い。凍えているはずの体は熱く、拓海の名前を繰り返すだけで、涙があふれた。
雪に閉ざされた車内に怖さはなかった。二度と消えないように『拓海』の名前を何度も、記憶に書き記す。やがて、もんもんと降る雪の世界に、抱き合う二人の姿は埋れていった。
雪原に陽が差したのは、二時間後。街をおおっていた雪雲は風に流され、吹きだまりの土産を置いていく。白く塗り替えられた農道を、一台のブルドーザーが雪をかきわける。運転席でハンドルを握るのは、はちまき姿のはじめだった。
「必ずあるから、しっかり見ろよ~」
「任せて、僕は目がいいんだ」
祐気は双眼鏡であたりを見まわす。やがて、田んぼを追い尽くす雪の中に、真っすぐ伸びた影を見つけた。
「あった! 平野先生の言った通りだ。目印の赤いスコップを見つけたよ――!」
「おお~うしろの連中にも教えてやれ!」
踏みつけられた雪は一本道となり、京香の車を導く。後部座席に乗っているのは細い眉毛で、そり込みの入った男が二人。『人命救助』と聞けば、どこにでも駆けつけるのが『蓮沢会』だ。
車体の揺れに目を開けたのは凛だった。体はシフトレバーを乗り越え拓海の腕に納まる。拓海のダウンが凛を包み、ありったけの座布団が凜を守っていた。
窓を削る音で拓海も目を開けると、「遅いよ」と時間を確認する。次の瞬間、勢いよくドアが開き、射し込んだ陽ざしに拓海と凛は目を細めた。
「おやおや~お邪魔でしたかい?」
はじめの冷やかしに、答える気力はない。拓海がだるそうに手をあげ、その横で凛が寄りそう。「生きているぞ――!」の声を聞いたあと、凛の意識は遠のいていった。
◇
「拓海君がついていながら、何をやっているのよ!」
店に京香の声が響くと、はじめは耳をふさぎ、拓海が耳をほじる。念のため病院で検査を受けたが、脈拍、血圧ともに正常値で凍傷もない。拓海は日帰りで病院を出たが、凛は二日経っても眠り続けていた。
「このまま、目が覚めなかったらどうするの!」
「京香さん、大丈夫よ~」
銀次郎が、向い合わせになだめた。
「せっかく、笑えるようになったのに……」
京香の視線は、グラス棚に飾られた写真に流れる。おどける常連たちの真ん中で、照れくさそうな凛が映っている。京香は凛の顔を指でなぞると鼻をすすった。すると、うしろを通る拓海は、銀次郎に向かって『チケット切っておいて』の合図を送る。
「凛ちゃんのところに行くの?」
その声を聞いて、京香も帰り支度をはじめた。
「ちょっと待って、わたしも行くわ」
「京香さん」
「だって、寝たきりなのよ。女のわたしじゃないと、困ることもあるでしょう?」
「拓海君でいいのよ」
「どうしてよ!」
京香が食いついている間に、拓海は店を出て行った。
「少し話をしましょう」
銀次郎はコーヒーを差し出す。カウンター内の椅子に腰をかけ銀次郎もコーヒーを口にした。
「多分、拓海君の方が扱い慣れているわ」
「――どう言うこと?」
「彼ね、五ヵ月のあいだ、ずっと凛ちゃんの側にいたのよ。目が覚めたときのために、あの子の足を擦って動かして、指の先まで血が巡るようにしていた」
銀次郎の言葉に、京香とはじめは顔を見合わせた。
「たった三ヶ月のリハビリで動けるようになったのは、拓海君のおかげかしらね」
「ちょっと待って、拓海君って……」
「あの二人は恋人同士よ。一緒に暮らしていた仲なの」
「そんな……」
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