第7話  クラクション

「刑事が、お凜さんのことを聞いていた?」

「そう、ツンとした女刑事で、顔はこんな感じ」

 翌日、『お散歩』のカウンターで、祐衣は逢坂の似顔絵を描いて、はじめに見せた。

「その刑事は、なんですね?」

「これから髪を書くの」

 祐衣は乱暴に、黒を書き足した。

「髪をうしろで束ねて、キツネみたいな顔をしていた。岡島先生が用意していたのは、凜ちゃんのカルテだよ。先生に聞いても教えてくれないし、気になるの」


「やっぱり『網走刑務所』に、いたんですかね?」

「いる訳がないでしょう!」

 京香が怒鳴ると、祐衣とはじめは耳をふさいだ。

「どうしてあの子に、刑事が来るのよ」

「京香さん、落ち着きなさい」

 銀次郎になだめられても、京香は窓から視線を外さなかった。

「だって心配じゃない。天気も荒れてきたみたいだし……」

 午後一時を過ぎたばかりだが、街は厚い雪雲でおおわれ、闇のようだった。

「天気予報も当てにならない。あの子は大丈夫かしら」

「拓海君がついているでしょう? 危険なら引き返して来るわよ」

 銀次郎の言葉に京香はうなずく。窓にへばりつく雪の吹きだまりは数分刻みで増えていく。風で鳴る鈴が誰かの悲鳴のように聞こえていた。

  ◇

「平野先生、前に進めません。どうやって教習所に帰ったら宜しいのでしょうか?」

「……考え中だ」

 教習所を出て十五分、荒れ狂う地吹雪は予想を超えて六号車を巻き込む。危険と判断した拓海に引き返すよう指示を受けるが、雪で信号機を見失った凛が入り込んだのは農道だった。

 雪は通ってきた道を消し去り、白銀の世界に教習車を封じ込める。最速で動くワイパーから氷を削る音がしていた。


「おい、シフトをまたいで助手席に移れ。運転を代わるぞ」

「平野先生は?」

「俺は外から乗り込むが、その前に除雪だ」

「わたしも外に出たい……」

「だめだ」

 長靴に履き替え拓海が言う。

「ねえ、わたしも行く……ここに一人は、いやなの」

 うろこ状に凍りついた窓から見える世界に、凜の震えは止まらない。目は潤み、ハンドルを握る手を離せなくなった。


「雪は一時的なものだ。小降りになれば俺がバックで広い道まで戻る。だから心配するな」

 凛が首をふると拓海が笑いかける。ポケットから携帯を取り出し、「はじめさんに、連絡ずみだ」と、凛の前で揺らして見せた。

 拓海がシートベルトを外すと、金属音に凜は顔をしかめた。後部座席のスコップを取り、拓海がドアに手を掛けると、凛は泣きながら腕をつかんだ。

「ここにいて……」

「すぐ戻る。排気筒の雪をかかないと数分で中毒死だ」

「いやだって、言っているでしょう!」

「じゃあ、エンジンを切るか? それで凍死だぞ」


 拓海がドアを開けると車内に雪が吹き込み、ハザードランプの光で血の海に見える。凜は「いや――!」と叫び、エンジンを切った。

「お願いだから……一人はいやなの」

「――凍死がいいのか」

 拓海は背伸びをして、スコップを雪山に刺す。「付き合うしかないな」と言ってドアを閉めた。ペットボトルを口に含み、拓海は凛を抱き寄せる。口移しで流れ込む水で凛はむせるが、気道が潤い呼吸が穏やかになる。「飲んだか?」と言われ、凛は拓海の肩に寄り添った。


 フロントガラスに張りつく雪は、生き物のように触手を伸ばし、隙間を埋めていく。やがて、雪の模様に影ができ、凛は人の姿に見えてくる。輪郭が翔の顔に整うと、一度収まった過呼吸は息を吹き返す。目が開いた幻覚に凛は震え出した。

「おい、息を吐き出せ! かまくらで教えただろう? 自分の名前を言えば息が吐ける。名前を言って見ろ、おまえは誰だ? 何て言う名前だ?」


 凛は口真似をするが声にならない。首を絞められた感覚が気道をふさぎ、ふり払おうと首に添えた爪は肌を傷つける。拓海の手が伸びて来ると、凛は悲鳴をあげながらドアの取手を揺らした。

「ドアを開けるな!」

「いや――――!」

「もう、大丈夫だって、ここに瀧川はいない! あの男はここにいないんだ!」

「翔は、わたしを許さない……」

「あいつは死んだ。もう、おまえを苦しめたりはしない」

 拓海に抱き寄せられるが、凛はその手を払いのけドアに身を寄せた。

「いやだって、言っているのに……」

「凛、こっちを見ろ! 俺が分かるか?」

「もう、叩かないで……」

 凛は両腕を盾に体をかばい、震えながら「ごめんなさい」を繰り返す。 

 拓海がつかんだ手から逃れようと、引いた肘でクラクションが鳴り響いていた。 


 あの日も同じ音を聞いた――

 フロントガラスで揺れるお守りが、雪に飛び散った血の色を思い出させる。雪を引きずられながら見た景色には、ひざから崩れ落ちた男がいる。名前を叫び、泣きながら窓を叩いた。クラクションを何度も鳴らした。途切れたのは翔に首を絞められた瞬間だった。


『僕から離れていくな――!』

 翔の声を聞き取ると、息苦しさの正体が鮮明に蘇った。記憶の中で笑っていた翔は、次第に冷たい顔に変わっていく。雪に放り投げるナイフは赤く染まり、車のキーを押す指も血で汚れている。それは、翔のものではなかった。 

「翔が、翔が刺した……」

「凛?」

「翔が拓海を刺したの――!」

「もういい、思い出すな!」

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