第4話  海の見える部屋

 凜が目を覚ましたのは日が傾いた頃で、西日が射し込むベランダを、ぼんやり眺めると海が見える。その手前には、レインボー色の観覧車があった。

「何て小さな観覧車……長屋より低い」

 ベランダに背中を向け、凛は布団にもぐり込む。数秒後、そんな訳はない――と、起き上がり、ベランダに向かおうと一歩踏み出すが、じゅうたんのへりに足を取られ布団ごと倒れた。


「忙しそうだな。笑った方がいいか?」

 拓海は一人掛けのソファーにもたれ、凛を眺めていた。顔には絆創膏ばんそうこうが貼られ、手にすり傷が見える。凛は顔を凝視ぎょうしすること数秒、かまくらでの呼吸困難と、連れ込まれた際に頬を引っかいた記憶が蘇った。

「そ、その節はどうも……」

 正座をして頭を下げると、凛の視界にあらわな太ももが飛び込んできた。部屋のすみには、スキーウェアーの上下とセーターがひとまとめになっている。モコモコ黒タイツは、とぐろを巻いていた。


「脱がしたの……」

「苦しいだの、暑いだの言って脱いだのは自分だ。だいたい、息を吸い続ければ誰だって苦しい。全裸になるのを止めたのは俺だ」

「ちょっとだけ覚えています。取りあえずお水をください。あと、楽な服も貸して欲しい。それと……」

「それと?」

「お腹へった……」

 無遠慮な人間に遠慮をするほど、心は豊かではない。だって、クズだもの―― いろんな場所で使える言葉だと、凛はかみしめた。

 宅配専門の寿司が届くと、凛の顔が華やぐ。

「小樽といえば、寿司でしょう」

 と、たいらげた頃には、拓海を警戒する気持ちが失せていた。


 なんだろう。この家は居心地がいい――

 断りもなく風呂に入り、必要以上に泡立った髪で、笑った顔を鏡に映す。楽しいの?―― と、聞いた自分にうなずき、しめは湯船のお湯を豪快にあふれさせた。

 拓海に暴君の顔はなく、凛が何をしても自由だった。『大福』を、二個しか食べられなかった仕返しに飽きた頃、陽は沈んでいく。小樽築港ちっこう駅徒歩五分、海沿いのマンション五百十二号室には「帰る」と言わない凛と、「帰れ」と言う気のない拓海がいた。


「ねえねえ、つまみぐらい出しなさいよ。気が利かないね」

「まだ飲むのか?」

「日本酒飲みたいな。冷やでいいから持ってきてよ」

「いい加減にしろよ」

「わたしが、言いたかった台詞~」

「酎ハイで我慢しろ」

 拓海はレモンの柄がついた缶を、テーブルに置く。

「あれ、わたしの好きなやつだ。これ、おいしいよね~」

 拓海に向かって乾杯のポーズをとる。首にタオルを巻き、片足を立てる姿が鏡に映ると、オヤジに見えた。やがて、過剰摂取のアルコールは凛の口を軽くさせ、翔の思い出を語り出す。人に腹の内を明かす心地よさに、口の滑りは絶好調。拓海の肩を叩いて笑い、肩に寄り添っては泣いていた。


「平野、おまえは人の話を聞いているのか?」

 凛が机をどんと叩くと、ゴミを片付けていた拓海の手が止まった。

「聞いているよ。俺に絡むな……」

「だから、プロポーズの返事をしに、わたしは小樽に来たの!」

「また、その話か~免許は、そのためなんだな?」

「そう。オロロンラインのカーブを二月十四日に走るの。翔を一人にさせないって、わたしは約束したからね。だから~浅倉は運転を頑張っているのであります」

 凛は、拓海に敬礼のポーズを見せた。


「プロポーズを受けてどうする。あの世で式でも挙げるつもりか?」

「最初は、そのつもりだった。でも……」

 凛はテーブルに頭を預けて、ため息をついた。

「最近は、ちょっと怖い」

「正常な思考だな」

「ここのみんなは優しい。クズでも受け入れてくれるいい街だ」

「そうだな」

「おまえもきびしいけど、優しいよね……」


 グラスから手が離れ、凛は目を閉じる。「寝るな」と言われグラスを握り、意味もなく笑う。「日本酒飲みたい」のリクエストに、「やっぱり寝ろ」と言われ、毛布にくるまり横たわる。ラグの心地よさに睡魔が襲うが、名前を呼ばれ、凜は薄目を開けた。

「二月になっても、あいつのところに行くな。あれは事故だ。誰もおまえを責めたりしない」

 凜は聞き取ってすぐ、お休みの合図で手をふる。うなずいた仕草で寝落ちを演じ、寝言のように「ありがとう」を拓海に贈った。

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