第3話 冬の顔
「ねえ……ここから出たい。ここは、いや――――!」
凛の悲鳴で会場は騒然となる。
「水だ! 誰か水をくれ!」
拓海の声に祐衣がペットボトルを差し出す。
凛の泣く声に健一は耳をふさぎ、京香のうしろに隠れた。
高さ百五十㎝のかまくらは、中から蹴り上げた拓海の足で形を崩し、幾つもの穴があく。やがて、常連たちが見守る中、凛を抱き上げ拓海が出てくる。
首筋に寄り添う凛の顔は青く、荒い息づかいを繰り返していた。
「はじめさん、車のエンジンをかけて、座席を倒してくれるか?」
「おうよ!」
はじめは、鍵を受け取り駐車場へ走り出す。
銀次郎が頭から毛布をかけると、凛の表情が誰からも見えなくなる。騒ぎ出す参加者を銀次郎はなだめ、その隙に拓海は凛を抱え公園をあとにしていた。
「凛はどうしたの? あいつ『中は広いね~』って、笑っていたよ」
京香の手を握り、健一は目を潤ませた。
「僕は、何もしてないって~」
「健一君のせいじゃないよ。凛ちゃんは大丈夫」
祐気は屈んで健一の頭をなでる。その横で京香が首をかしげた。
「ねえ、祐気君。あの子は閉所恐怖症なの?」
「うん、多分ね。かまくらに入ると気分が悪くなる人はいるよ。でも、過呼吸になっていた。あの症状は重症だよ」
「事故のせいかしら?」
「どうかな~確かに雪の中に落ちたけど、長い時間じゃなかった。あれで、閉所恐怖症になるのかな?」
祐気は、祐衣に視線を送った。
「ならないとは言い切れないけど、それより平野先生の処置は完璧だった。
放って置くと危ないんだよ、呼吸困難で意識をなくす人だっている」
「先生は、凛ちゃんの症状を知っていたってこと?」
「うん、だからすぐ気がついたと思う」
祐衣の言葉に祐気はうなずく。
「お片づけの時間よ~」
と呼ぶ銀次郎は、いつも通りの姿で笑っている。
公園を照らしていた陽ざしは雪雲に隠れ、冬のきびしい顔に戻っていった。
その夜、京香は何度か凛の長屋を訪ねたが、台所の子窓に明かりは灯らなかった。
はじめに聞いた話で、拓海がマンションに連れ去ったと知り、京香は『お散歩』に立ち寄る。店に客はなく、グラスボードにはトロフィーが飾られていた。
「今日は、お疲れさま。健一君の子守りで、京香さんも忙しかったわね」
「最近、やんちゃなの。やっぱり片親じゃだめなのかしら」
「あなたは、よくやっているわ」
銀次郎がコーヒーを差し出すと、京香はその顔を眺めた。
「ねえ、銀ちゃん」
と言ってから、京香はコーヒーで喉を潤す。
「拓海君って、本気なのかしら?」
「急にどうしたのよ」
「冷やかしならやめてほしいの。翔さんのことだってあるし、あの子を傷つけられたくないわ」
「誰も傷つけたりしないわよ」
「銀ちゃんは、何か知っているの?」
京香の強い口調に、銀次郎はひとつ息を吐いた。
「――拓海君は本気よ。澄ました顔で、凛ちゃんを見て泣いている」
「どう言うこと? あの子が小樽に来るって情報は、拓海君からよ。それって、誰から聞いたのかしら」
「京香さん」
「拓海君は確かに事故現場にいたわ。でも、ケガをしていた……」
京香はコーヒーを飲み干すと、カップをソーサーに置いた。
「ねえ、わたしはあの子の力になりたいのよ。わたしだけじゃない、みんなだってそうなのよ」
「大きな声を出すと、健一君が起きるわ」
京香は銀次郎に諭され、健一の毛布をかけ直しに出窓へ向かう。カウンター席に戻ると、お代わりのコーヒーが用意されていた。
「今は、何も聞かずに見守ってあげてほしいの。嵐は、多分これからよ。凛ちゃんを信じてあげて、それだけで乗り越えられるわ」
「嵐って何?」
「過去よ。あの子の過去なの」
その後、京香が何を聞いても、銀次郎は答えなかった。
京香の記憶には野次馬の中で、雪にひざまずく拓海の姿がある。
『凛!』
と叫んだ声を聞いて名前を知り、京香も手を握ってその名を繰り返す。
救急車の到着後、京香がふり返ると野次馬の中に拓海の姿はない。京香の見間違いでなければ、拓海の指先から滴り落ちた血が雪を赤く染めていた。
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