第11話 聖者の夜
「嘘よ! 拓海君、嘘をついているの。
そんなことないから、安心して」
凛の背中をなでながら、京香がにらみつけた。
「心配するな。俺はただの野次馬で、おまえを助けちゃいない。
お礼を言う必要のない男だ」
拓海は、銀次郎に手をあげて店を出て行く。
凜の呼吸は荒く、ドアが閉まっても動悸は激しかった。
その夜、店は営業中のプレートを裏返し、改めて凛の歓迎会の場となった。常連たちに囲まれ、騒がしさは心地よく、アルコールが血の巡りをあおる。
「はじめさんの嘘は、乱暴なの!」
凜は、ビールを飲み切ったグラスをカウンターに置いた。
「網走刑務所に、入ってないから」
「あれは、平野先生のアイディアだぜ」
「ああ?」
おどけて笑うはじめに、絡むのは酒のせい。
祐衣と祐気に「心配かけてごめんね」と言ったのも酒のせい。
「みんな、あなたに会いたかったの」
と京香に言われ、肩に寄り添ったのも酒のせいだ。
ただ、『約束は守れそうにない。ガードレールは越えられない』と、翔に詫びたのは、心からだった。
翌日、新光町内は『燃えるゴミの日』で、店の前にあるポリバケツに顔を突っ込み、凛はゴミをあさる。腕時計を見ると八時三十分、そろそろ収集車の来る時間だった。
「凛ちゃんの探し物って、これかしら?」
銀次郎がドアから顔を出し、ブルーのファイルを見せびらかす。
朝日に照らされ、『朝里動車学校』の文字が光っていた。
「探すくらいなら、捨てないことね」
「どうも……」
凜は、銀次郎に深く頭を下げた。
教習所の予約は十時、自分で考え、自分で決めて、自分で電話をした。当たり前のことだが、凜にとってクズなりの底力が開花した気分で、心が弾む。
助手席に乗り込んだ拓海を見ても、気まずさはなかった。
仏の教官からあいさつがはじまり、凜の返しも同じだ。しかし、怠けた日々は運転技術を初心者に変える。
アクセルを踏み込むと、半クラッチが上手く伝わらず、車体は上下に揺れ、二メートル進んだところでエンジンが切れた。
「貴様……」
「気持ちは、盛り上がったのですが」
拓海のにらむ視線をかわし、やる気はあります―― の、オーラを凜は漂わせた。
それから三日、拓海のファイルを丸暗記で覚え、シフトチェンジに汗をかく。
もたつく左手に拓海の手が重なると、吐きそうなギアーチェンジが滑らかな加速に変わる。
「思い出せ」
と言われ鼓動が早まり、「忘れるな」の声に頬が熱くなった。
「いいか、おまえはあせると運転が荒くなる。
本番は平常心を心がけろ」
「本番……?」
「おお、今年最後の仮免検定はクリスマスイブだ。
まあ、頑張って」
「平野先生は、試験官じゃないの?」
「その日は、女に甘いおやじだ」
「手を握った方がいい?」
「それが通用するのは俺だけだ。
いいから、さっさと帰って『お散歩』で働け。
仕事が終わったら、口説きに行く」
凛は車を降りてすぐ助手席の窓をのぞく。すると、バインダーの用紙をめくり『みきわめ』の横に拓海が合格と書き記す。
万歳三唱を心の中で唱え、走り出すと「凛!」の声にふり返った。
「試験頑張れよ。また二人で、小樽運河に行こうな」
拓海は窓から片肘を出し、少年のようにおどけた顔で笑う。凜は手を高くあげ、拓海の声に合図を送った。
◇
クリスマスイブ当日、『お散歩』には、はじめの背丈を超えるツリーが飾られた。祐衣と祐気が脚立に乗り、最後の星の飾りで揉めている。
「どこを向けても、一緒だぜ」
と、はじめが笑いながら電飾の準備をしていた。その前を京香が忙しなく歩き、銀次郎がコーヒーを差し出しても気がつかなかった。
「京香さん、少し落ち着きなさい」
「だめ……なんだかイライラしてきた」
「凛ちゃんなら大丈夫よ」
「だって~ あの子はすぐ緊張するのよ。
坂道は上手く超えられたのかしら~」
「落ちたって次があるでしょう」
「そんなことになったら、あの子が沈むわ。
だめなのよ~ 笑えるようにならないと」
京香はため息をつき、冷めたコーヒーを一気に飲み干す。カウンターの隅で、スポーツ新聞を広げる拓海の横に腰を下ろした。
「エロイ記事ばかり読んでいないで、あなたは心配じゃないの?」
「いやらしい写真だって、目を通している」
「落ちたら拓海君の責任よ」
「俺の生徒は基本一発合格だ。まあ、たまに例外はいるのだが……」
にらむ京香の視線をかわし、拓海が新聞を広げるとドアから入り込んだ風が揺らす。
「凛ちゃん……」
銀次郎の声に、京香はふり返る。凛の息づかいは荒く、鼻と頬が赤い。常連たちの顔を見渡し、うつむく表情を見て、京香は「ああ~」と言いながらカウンターに倒れ込んだ。
「拓海君、なんて慰めたらいいの?」
「俺なら、『運転、やめてしまえ!』って言うけど、必要ないかも」
拓海が合図を送ると、凛が仮運転免許証を顔の前に広げている。
目元を隠しているが、堪えられない感情で口元が緩んでいた。
沈黙を破ったのは銀次郎の悲鳴だった。
続いてはじめが拍手を送り、脚立から祐衣と祐気が飛び降りる。凛は免許証から顔を出すと、自慢げに顔をあおいで見せた。
「あの子、笑っている。
ねえ~ 拓海君、あの子笑っているじゃない」
「たかが仮免だろう? どんな騒ぎだ」
万歳三唱の歓声の中、凛の免許証が常連たちの手を渡っていく。
賢者の集う店に届いた贈り物は、たった数ミリの頼りない証書だ。それは、凛の笑顔を運び、聖者の夜を祝う。常連たちの手荒い祝福を受け、凛は拓海に向かってピースサインを返していた。
次回 第三章 『冬色の羽』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます