第10話 声の花束 2
「みなさんに、聞きたいことがあります!」
と叫ぶが、寒さで誰もふり向けない。一番風を受けていたのは拓海だった。
「ドアを閉めてから聞け!
答える前に凍死するだろうが」
「平野先生は関係ない。
はっきり言って、邪魔」
拓海が立ち上がると、祐気がうしろから押さえつける。
「どうどう」と、はじめがなだめ、祐衣は塩をまいて怒りを清めていた。
「さっき、峰岸さんって人に会ったの」
凛の言葉で常連たちの動きが止まり、それぞれの席に戻っていく。凛の視線は、コーヒーをスプーンでまわす京香の背中に流れる。凛がうしろに立つと、京香はゆっくりふり返った。
「わたしに用事でもあるのかしら?」
凛は耳を澄ませて、京香の声を確かめた。
「峰岸さんが、『漬物ごちそうさま』って、言っていました」
「――違うでしょう?」
この声だ――
鼻にかかる声は、意識が遠のくたびに現実世界へ連れ戻した響きと同じだった。
目は見えていなかった。
指も動かせなかった。
残った感覚で読み取るのは、ガソリンの匂いと人の騒がしさだけで、『翔を助けて――』と叫んだが、口を伝っていたのか凛は分からない。
ただ、誰かに手を握られ、誰かの胸元にすがりつく。香っていたのは京香と同じ香水だった。
「翔が避けた軽自動車は、京香さんの車ですか?」
静まり返る店内に、京香の椅子が軋む音が鳴る。
しばらく凛の顔を眺めてから、京香はうなずいた。
「――わたしが運転をしていたわ」
「思い出したの。京香さんの泣く声……」
「そうね。たくさん泣いたわよ」
京香は息を整えた。
「――あなたは、声をかけていないと目を閉じちゃうの。
だんだん血の気が引いて、唇は紫色になるし、わたしは泣くのが精一杯だった」
「手を握ってくれたのも、京香さんですか?」
「ええ、とても冷たい手だった。
呼びかけても、あたなは手を握り返してくれないの……」
京香の目から涙が落ちると、凛は床にひざまずく。
涙で濡れた手を凛は握りしめた。
「今は暖かいわね。あなたが生きている証拠だわ」
「教えて、翔は生きていたの?」
「――ごめんなさい。息はしていなかった」
京香が首をふると、凛はひざにすがりつく。
背中におおいかぶさる京香の震えが、凛を泣かせた。
あの日、道内各地で事故が多発していた。新聞の一面は国道十二号線で起きた玉つき事故で、家族四人が犠牲になり涙を誘う。
凛を巻き込んだ小樽の事故は、たった十行の扱いだ。
翔の命を語るには足りない文字を、埋めてくれた京香の手は暖かい。凛は生きている証を伝えるように、京香の手を強く握り返した。
「翔さんを最後まで諦めなかったのは、祐衣ちゃんよ。
救急車に乗り込んでも蘇生をしていたわ」
凜が視線を祐衣に流すと、目が赤かった。
「一応、看護師ですから、当然の義務です」
「ありがとう……」
「わたしだけじゃない。
はじめさんがいなかったら、車から出すことはできなかった。
祐気だって、峰岸のおばさんだって、みんな必死だった」
「うん」
「京香さんは、『すぐに謝りたい』って言っていたの。
でも、パニックを起こしたら危険だって岡島先生に言われて、
わたしが口止めをした。黙っていてごめんね」
祐衣の顔を見て、凛は首をふった。
「みんなで助けた人だから、みんなで力になろうって決めたの。
だけど、小樽に来た理由を考えると、怖くて……」
祐衣が鼻をすすると、隣で祐気が背中をなでた。
「凛ちゃんの意識が戻ったって聞いて、僕等はここで乾杯したんだ。
ねえ、平野先生」
「え……」
凜の視線に、拓海はあくびで返す。
峰岸の話に拓海の名前は出てこない。
『そう、出てこなかった』と、凜は心の中で二回言った。
「あの……平野先生に、お礼を言う必要はないですよね?」
「俺には謝れ」
「嘘でも、『事故現場には、いなかった』と言ってください」
「――いたよ。聞きたいか? 人命救助の話」
「そんな、いやな話があるなら、ぜひ」
「意識がないのをいいことに、濃厚な人工呼吸をしてやった」
薄笑いの拓海を見て、凜の意識は遠のく。抱きかかえたのは京香だ。
「嘘よ! 拓海君、嘘をついているの」
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