第8話 敵とは
「入りなさい。遠慮しなくてもいいのよ」
銀次郎が手招いても、凛は靴を脱ぐことをためらう。銀次郎の家は店の裏手にあるが、狭い路地には吹き溜まりができ、雪をこいだせいで凛の靴下は濡れていた。
広い廊下に点々と観葉植物が並べられ、凛の足跡も点々と居間に続く。
十二帖の部屋にはレンガに囲まれたストーブが燃えていた。
「お店を閉めて、よかったのでしょうか?」
「こんな天気じゃ誰も来ないわ。それより、紅茶でも飲みましょう。
おいしいのがあるのよ~ ちょっと待っていてね」
銀次郎が台所へ向かうと、凛は居間を見渡す。サイドボードにいくつも写真が飾られ、海を背景に収る少年の写真たてを手に取った。
「銀ちゃんの、子供?」
凛は首をかしげる。
いくら母性が強くても、生殖器は出産を許さない。そうなると答えはひとつ。正しい使い方で、誰かが生んだと考えるのが望ましい。
「その写真かわいいでしょう? 九州にいる孫よ」
「ああ、お孫さんですか~」
凜はうなずくが、混乱したままで解決には至らなかった。
銀次郎は花柄のティーポットで、おそろいのカップに紅茶をそそぐ。ソーサーの横にチョコレートをひとつ添えて凛に手渡した。
「怒っていたわね~拓海君。
まあ~ 仕事柄、聞き流せない気持ちは分かるわ」
「他の人達も怒っていました。
わたしのせいで常連さんが減ったかもしれません」
「あの人達は大丈夫よ。
凛ちゃんを不快に思った人は、先月中に来なくなったわ」
「そ、そうですか……」
凜は銀次郎に向かって頭を下げた。
「あの、京香さんは泣いていたような気がします」
「そうね~きっと、いやなことを思い出したのよ」
「いやなことって?」
「京香さん、今年の二月に事故を起こしたの。
今日みたいに視界が悪い日で、路面はアイスバーンだったわ」
「二月……」
「彼女は、今も運転をするけど、いつも自分を戒めている。
誰かの寿命と引き換えに健一君と自分は生きているってね。
だから、『笑う』と言った言葉が悲しいの。
凛ちゃんの言葉を聞いていられなかったのよ」
十二月の雪嵐が居間のベランダを叩く。
寿命と茶化した愚かさを、戒める風の音に聞こえる。
凛はティーカップをテーブルに置くと、うつむいたままで、銀次郎の目を見られなくなった。
「クズは、わたしかも知れない……」
「拓海君に謝る気はある?」
「ありません。多分、わたしはそんな人間だから謝れない」
凛は紅茶を一口飲むと、自分の言葉にうなずいた。
「じゃあ、謝らなくてもいいわ。
その方が前の凛ちゃんより正直でいい」
「人の不幸を願うわたしが、ですか?」
「もちろん。上手に自分を認められたじゃない」
「『クズじゃない』と、言ってくれてもいいのですけど……」
「そこが甘いのよ」
銀次郎が笑った。
「あなたが言うそんな人間でいいのよ。
『これがわたしの精一杯です』って顔をしたら、自分が見えたでしょう?
そこから、はじめなさい」
「クズからですか……?」
「そうよ。クズだもの口が滑ることもあるし、愛想が悪いのは当たり前ね。
強情なわりに他力本願で、自分じゃ何も決められない。
だって、クズだもの~ 仕方がないわ。
でも、わたしはそんな凛ちゃんが好きよ」
銀次郎に頭をなでられ、凛の顔がゆがむ。
『ごめんなさい』を口で真似たが、誰に謝るのか的を絞れず、声にならなかった。
「小樽は好き?」
「はい、あなたのことも好きです」
「いい子ね。もうひとつチョコをあげる」
銀次郎の優しさに白旗をふるしかなかった。
カモミール入りの紅茶が体を温め、口に入れたチョコの甘さに涙が出る。その甘味は、敵と呼ぶべき者をとかしていく感覚だった。
その日、雪嵐は夕方になっても止まなかった。
銀次郎の家に逃げ込んだ凛を探して、雪煙をあげながら『見晴らし坂』をのぼる。
風に巻き上げられ次に目指すのは、吹き溜まりに埋れた長屋だ。身を潜める拓海を見つけると、悲鳴をあげながら髪を揺らしていた。
「しつこいな……」
拓海は携帯電話を耳に当て、雪煙に目を閉じた。
《もしもし、拓海君? 聞いているの》
「聞こえていますよ。瀧川がうるさいだけです」
《凜ちゃんは、わたしが送っていくから、あなたは帰りなさい。
みんなにも伝えて》
「はい……」
銀次郎の声に、拓海がうなずく。
《ところで、本気で退学にするつもり?》
「もちろんと言いたいですが、指導員にそんな権限はありません」
《そうよね。あの子、気付いていないけど戦っているわ。
無意識に翔さんと戦っているのよ》
「分かっている。――凛のこと、宜しくお願いします」
拓海は携帯電話を切ると、街灯の下で踊る雪を見上げる。
「凜を解放しろ」
と、にらみつけ、風の道筋を目で追う。
冷気が自分を追うのなら、凜を冷やすことはない。拓海はマフラーを結び直し、翔を誘うように長屋をあとにした。
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