第7話  本 音

「――怖くない。何も怖くないよ」

「そう……わたしは十五年以上の運転歴があるけど、冬は怖いわよ」

「下手なんじゃないの?」

 背中を向けたままの凛に、京香の視線はきつくなる。銀次郎は黙って凛の横顔を見ていた。

「国道を突っ走ると、きっと気持ちがいいよ。法定速度を無視して、無駄な車線変更を繰り返すの。邪魔な車に舌打ちもいいね」

「それから?」

「とろい車にはクラクションを鳴らして、うしろからあおる。それで相手が事故ったら? 寿命だって笑えばいいよ」

「――そんな奴は、運転するな!」 


 怒鳴り声に、まわしていたおぼんが止まる。ふり返るとカウンターに手をつき、拓海が身を乗り出す。頭に雪を散らし、前髪からのぞいた目はきびしかった。

「聞こえたか? おまえはハンドルを握るな」

「適性検査は、問題ありませんでした」

「俺達は事故を起こさないために教えているんだ! 車は凶器だ。一瞬の油断で人の人生を奪う。おまえは分かって言っているのか?」

「そんなの知っているよ……」

「おまえのせいで事故った奴にも、家族がいるんだぞ! 人の寿命を奪う権利がおまえにあるのか!」

「平野先生~お凜さんは冗談だよ」

 はじめは拓海の正面に立ちはだかり、体を張って抑えつける。


「冗談ですむか!」

 と叫ぶ拓海の唇は、震えていた。

「何が、『とろい車をあおる』だ。何が、『国道突っ走る』だ。そんな運転を教えられる奴は、『朝里自動車学校』にいない。別な学校に移ってくれ、二度と来るな!」

 拓海は、凛が今まで見たことのない顔だった。悪戯いたずらをたくらむように目を細め、からかう姿が消えていく。はじめの手を払いのけ、拓海はカウンターにファイルを放り投げる。見出しには、『第一段階みきわめの要点』と記してあった。


「どうしたの、なんの騒ぎ?」

 顔を出した祐衣と祐気は、騒然そうぜんとする店の空気に息をのむ。凛は壁に寄りかかり、店を出ていく拓海の背中を目で追う。口をついた言葉はすべて無意識だった。それだけに、本音が口を滑らせた。

 ガードレールからオロロンラインを見下ろし、流れる車の不幸を願う。そんな感覚が、心をいやしていたのは事実だ。拓海の言葉を借り、自分に正直に生きてみれば、生きる価値がない自分が見えた。


 店内の張り詰めた空気は、拓海が出て行ってからも緩むことはなかった。それは、淡々とファイルをゴミ箱に捨てる凛の仕草が引きがねになる。普段、擁護にまわるはじめでさえ、凛に向かって首をふった。

「そいつは、いけませんぜ~」

「どうして? もういらないよ」

「お凜さんのために、用意したって聞きやしたぜ」

「はじめさんも聞いていたでしょう? わたしは退学なの。別にあの学校じゃなくてもいいし、車じゃなくたって……」


 凛の言葉に、祐衣と祐気は顔を見合わせる。洗い物をする手は荒く、いら立つ音が店の空気を汚していく。

 制御できない腹立たしさを身代りにするには、口を返さぬコーヒーカップは絶好の餌食えじきだ。やがて、痛みに耐えかね悲鳴と共にカップがわれる。それは、京香の怒鳴り声で凛が手を滑らせた瞬間だった。

「いい加減にしなさい。冗談だとしてもあなたが悪い。ちゃんと教習所に行って、拓海君に謝りなさい!」

「カップのお詫びですか?」

「違うでしょう!」

「それ以外、心当たりはない」

 凛は、ツンと横を向く。


 そこのみんなは、敵だよ―― 仲良くしちゃだめ――


 妄想であっても、凜には必要な翔の声だった。その声に背中を押され、凜は洗い物をはじめる。

「ごちそうさま」

 とカウンターにチケットを置く京香は涙声だ。足早に店を出て行くと、はじめもあとを追う。祐衣はコートのボタンをとめ直し、「帰ろう」と祐気の腕を引く。ドアが開くたびに入り込んだ雪が孤独を笑い、風は今年一番の冷たさだった。

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