第6話  再冷凍

「拓海君? そろそろ、いいんじゃないかしら……」

「何が、ですか?」

 拓海は銀次郎に背中を向け、新聞を広げた。

「おしおきよ」

「俺は、そんなつもりありません。やる気があるなら来ればいいし、いやなら辞めればいい。自分で考え自分で決める。それが、二十三歳の大人のやることだ」

「せっかく覚えた運転を忘れちゃうわよ」

「忘れるほど覚えちゃいませんよ」

「きっかけくらい作るのが、二十七歳の男がやることでしょう?」

 銀次郎の視線が冷蔵庫に流れる。壁との隙間は五十センチ、そこには膝を抱える凛が身を隠す。銀次郎がカウンターを叩き合図を送っても、拓海が見ることはなかった。


「凛ちゃんね~毎日、おぼんをまわして練習しているの。一生懸命よね」

「俺は受け身の人間を、なまけ者だと思っています。誰かのお膳立てがないと動けないのも情けない話だ」

「拓海君」

「自分で動かなければ、すべて人のせいにして逃げ道を作れる。意志と言うのは曲がっていようが、今の自分に従うものだ」

 拓海は新聞をカウンターに放り投げ、店を出て行く。店内が静まり返ると背中でうなる冷蔵庫が、意志のない凛を笑っていた。


 その日の夜、夢に出てきた翔は優しかった。涙目の凛を見て嬉しそうに笑っている。

『だから言ったでしょう?』

 と、凛の頬に手を伸ばして涙をぬぐう。触れた瞬間、凍りつく冷たさに凛の体は動けなくなった。

『僕から離れていくな。凛は僕の言うことだけ聞いていればいい』


 翔の胸に抱き寄せられると雪の匂いがした。記憶をひも解く鍵を凍りつかせ、翔の世界へ落ちていく。やがて冷たさは痛みに変わり、初めて抱き合った十四歳の記憶を呼び覚ました。

『誰にも言っちゃだめ。二人の秘密だよ』

 体育館倉庫に積まれたマットレスを死角に、荒い息づかいの翔がおおいかぶさる。ブラウスの中をまさぐる手は冷たく、雨に濡れた制服は互いの汗でさらに湿っていく。右足のくるぶしまで落ちた下着が、翔のリズムで揺れていた。


 夢の中で見る二人はむさぼるように抱き合い、その荒々しさを初めて知る。翔は何かに追われ、身を隠すように押し入り、何度も体を突き、奥へ奥へと吐き出す。唇には血がにじみ、夕日に照らされていたのは涙だった。

『忘れるな。凛は僕がいないとだめなんだ』

 翔の声に、凛の体が震えた。首をつかまれた感覚で呼吸は早まり、息苦しさに寝返りをうつ。おびえるように体を丸め、布団にくるまった。

 分かっている。二月に行くよ――

 凜は夢の中で、泣きながらうなずいた。


 翌日、小樽には暴風雪警報が発令された。海から吹き込む風がドアを叩き、人の出入りがなくても呼び鈴が鳴る。凛はカウンター内の椅子に腰をかけ、横殴りの雪を見ていた。

「いい、天気……」

「ねえ、凛ちゃん。こんな日から教習所に行かなくても~」

「予約を入れたので午後から行ってきます。のんきにしていると間に合わなくなるし……」

「ん?」

 銀次郎が聞き返しても、凛の視線は雪を追っていた。


「それにしても、今日は暇ですね。朝から、たいした客も来ないし」

 凛の言葉に、京香とはじめのコーヒーを飲む手が止まる。雪害を受けたのは、美容室とリサイクルショップも同じだ。開店から三時間ねばったが、ひとっこ一人歩かない通りを見て、ねばる場所を『お散歩』に替えた。

「失礼な子ね。コーヒーチケット買ったでしょう?」

「いつもご利用ありがとうございます」

「こっち向いて言いなさい」

 凜はカウンターに背中を向け、壁を教習所のコースに見立て、車を走らせる。ハンドルの代用品はおぼんだ。口うるさい教官を乗せないおかげで、坂道は無難に乗り越えられた。


「一生懸命ね。でも、楽な季節に取ればいいのに、どうして真冬なの?」

 京香の声で、壁に映る景色がオロロンラインに変わり、空模様はあの日と同じ吹雪だ。

「急に免許が欲しいなんて、あなたが路上に出ると迷惑よ」

 と言われ、アクセルを力一杯踏み込む。妄想の世界で、横断歩道を渡る京香と健一を見つけると、迷うことなく二人を跳ね飛ばした。


 やがて、遠くに見えるのは海岸線に寄り添うカーブだ。新光町の住人は魔のカーブと呼ぶが、翔に会える神聖な場所でもある。鳴り続けるドアの鈴が合図になり、一気にスピードを上げて同じ日の体感速度を試みる。

「車は、怖くないの?」

 の一言で、景色はホワイトアウトに飲み込まれ、急ブレーキを踏むとハンドル操作を誤った。

「さっきから、うるさいな!」

 凛の強い口調に、はじめと京香が顔を見合わせた。

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