第6話 再冷凍
「拓海君? そろそろ、いいんじゃないかしら……」
「何が、ですか?」
拓海は銀次郎に背中を向け、新聞を広げた。
「おしおきよ」
「俺は、そんなつもりありません。
やる気があるなら来ればいいし、いやなら辞めればいい。
自分で考え自分で決める。それが、二十三歳の大人のやることだ」
「せっかく覚えた運転を、忘れちゃうわよ」
「忘れるほど、覚えちゃいませんよ」
「きっかけくらい作るのが、二十七歳の男がやることでしょう?」
銀次郎の視線が冷蔵庫に流れる。壁との隙間は五十センチ、そこには膝を抱える凛が身を隠す。銀次郎がカウンターを叩き合図を送っても、拓海が見ることはなかった。
「凛ちゃんね~ 毎日、おぼんをまわして練習しているの。
一生懸命よね」
「俺は受け身の人間を、なまけ者だと思っています。
誰かのお膳立てがないと動けないのも情けない話だ」
「拓海君」
「自分で動かなければ、すべて人のせいにして逃げ道を作れる。
意志と言うのは曲がっていようが、今の自分に従うものだ」
拓海は新聞をカウンターに放り投げ、店を出て行く。店内が静まり返ると背中でうなる冷蔵庫が、意志のない凛を笑っていた。
◇
その日の夜、夢に出てきた翔は優しかった。
涙目の凛を見て嬉しそうに笑っている。
『だから言ったでしょう?』
凛の頬に手を伸ばして涙をぬぐう。触れた瞬間、凍りつく冷たさに凛の体は動けなくなった。
『僕から離れていくな。凛は僕の言うことだけ聞いていればいい』
翔の胸に抱き寄せられると雪の匂いがした。記憶をひも解く鍵を凍りつかせ、翔の世界へ落ちていく。やがて冷たさは痛みに変わり、初めて抱き合った十四歳の記憶を呼び覚ました。
『誰にも言っちゃだめ。二人の秘密だよ』
体育館倉庫に積まれたマットレスを死角に、荒い息づかいの翔がおおいかぶさる。ブラウスの中をまさぐる手は冷たく、雨に濡れた制服は互いの汗でさらに湿っていく。右足のくるぶしまで落ちた下着が、翔のリズムで揺れていた。
夢の中で見る二人はむさぼるように抱き合い、その荒々しさを初めて知る。
翔は何かに追われ、身を隠すように押し入り、何度も体を突き、奥へ奥へと吐き出す。唇には血がにじみ、夕日に照らされていたのは涙だった。
『忘れるな。凛は僕がいないとだめなんだ』
翔の声に、凛の体が震えた。
首をつかまれた感覚で呼吸は早まり、息苦しさに寝返りをうつ。
分かっている。
二月に行くよ――
凜は夢の中で、泣きながらうなずいた。
翌日、小樽には暴風雪警報が発令された。海から吹き込む風がドアを叩き、人の出入りがなくても呼び鈴が鳴る。凛はカウンター内の椅子に腰をかけ、横殴りの雪を見ていた。
「いい、天気……」
「ねえ、凛ちゃん。
こんな日から教習所に行かなくても~」
「予約を入れたので午後から行ってきます。
のんきにしていると間に合わなくなるし……」
「ん?」
銀次郎が聞き返しても、凛の視線は雪を追っていた。
「それにしても、今日は暇ですね。
朝から、たいした客も来ないし」
凛の言葉に、京香とはじめのコーヒーを飲む手が止まる。
雪害を受けたのは、美容室とリサイクルショップも同じだ。
開店から三時間ねばったが、ひとっこ一人歩かない通りを見て、ねばる場所を『お散歩』に替えた。
「失礼な子ね。コーヒーチケット買ったでしょう?」
「いつもご利用ありがとうございます」
「こっち向いて言いなさい」
凜はカウンターに背中を向け、壁を教習所のコースに見立て、車を走らせる。
ハンドルの代用品はおぼんだ。口うるさい教官を乗せないおかげで、坂道は無難に乗り越えられた。
「一生懸命ね。でも、楽な季節に取ればいいのに、
どうして真冬なの?」
京香の声で壁に映る景色がオロロンラインに変わり、空模様はあの日と同じ吹雪だ。
「急に免許が欲しいなんて、あなたが路上に出ると迷惑よ」
京香の言葉にアクセルを力一杯踏み込む。妄想の世界で、横断歩道を渡る京香と健一を見つけると、迷うことなく二人を跳ね飛ばした。
やがて、遠くに見えるのは海岸線に寄り添うカーブだ。
新光町の住人は魔のカーブと呼ぶが、翔に会える神聖な場所でもある。鳴り続けるドアの鈴が合図になり、一気にスピードを上げて同じ日の体感速度を試みる。
「車は、怖くないの?」
その一言で、景色はホワイトアウトに飲み込まれ、急ブレーキを踏むとハンドル操作を誤った。
「さっきから、うるさいな!」
凛の強い口調に、はじめと京香が顔を見合わせた。
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