第3話  解 凍 1 興味を持つ

 東京の杏林きょうりんどう病院で、医師に指示をされた定期健診を守る気はなかった。しかし、記憶が晴れるたびに襲う頭痛は凛の手に負えない。


 この日、凜は紹介状を持ち、南小樽病院に向かった。


 JR南小樽駅で電車を降り、広い通りを数分歩くと病院が見えてくる。開業四十年の建物は古く、祐衣から近い将来、建て替えの予定があると聞いていた。


「お話は、伺っています。

 事故前後の記憶が、戻っていないと聞きましたが?」


「はい……最近は記憶がないのが普通で、

 思い出して驚くことがあります」


「なるほど……」


 担当の医師は紹介状をめくり、頭をかきながら戻す。東京の主治医より年齢は若く、岡島おかじまのネームバッチがついていた。


「あなたの氏名、年齢、職業、すべて分かるのですね?」

「はい」


「同乗者の男性のことは? 

 確か、瀧川翔さんと聞いていますが」


「もちろん、分かります。

 でも、記憶がはっきりしているのは、高校生までです」


 凛がうつむくと、カルテに書き込む岡島のペンが止まった。


「事故当日は、どうでしょう? 会話は、覚えていますか?」


「――ところどころです。プロポーズをしてくれたのと……

 あとは……あと、何を話したのかな」



 断片的な記憶は、繋がっていなかった。助手席から眺める翔の顔は幼く、体と均整が取れていない。笑う声は変声期前だが、高等部のブレサーを羽織っている。ちぐはぐな記憶が、いつも頭の中で揺れていた。


「それでは、最近、思い出したことを教えてください」

「以前、小樽で見た景色です。あれは、事故の前日だったと思います」

「そうですか」


 岡島は椅子をまわし、凛と向かい合わせになった。


「おそらく、不快と感じる物を、一時的に凍らせているのでしょう。

 バランスが崩れないように、少しずつ解凍していく。

 その痛みかも知れないです」


「凍るなら、事故の瞬間がよかった……」


「浅倉さんは事故後、五ヵ月も眠っていたのですよ。

 混乱して当たり前です。筋力を戻し、日常生活を送れることがすごい。

 寝たきりや、記憶がすべてない人もいますからね」


「はい……」

「人に興味を持ち、積極的に関わりましょう。

 あと、笑うことも刺激になります。

 きっと、大事なことを思い出すかもしれません」


 岡島は目尻にしわを寄せ、お手本のような笑顔を見せた。


 痛みが回復のきざしなら、耐える価値はあった。ただ、失った記憶のリストに笑顔が含まれているのか、凛は分からない。


 生まれついての無愛想なら、コミュニケーション能力が未熟なまま、生きていく覚悟を決めなければならなかった。



 笑う? 何に、どうやって――


 薬待ちの時間、隣で天使の笑顔を見せる赤子あかごに聞いてみた。


 うたた寝をしている母親を警戒しながら、無表情で目を合わせる。一分もたたないうちに泣き出され、凛は素知らぬ顔で正面を向く。笑いを学ぼうと試みたが、いたいけな赤子の恐怖を刺激しただけに終わった。



「凛ちゃん……何やっているの?」


 声にふり返ると、祐気が首をかしげている。上下水色の制服で、患者を乗せた車椅子を押していた。


「風邪でもひいたの?」


「平野アレルギーで、薬をもらいに来たの。

 それより、どうして来なかったの? 嘘までついて」


 凜は眼鏡を直してから、祐気を見た。


「だって、平野先生が二人にしてほしいって言うから遠慮したの。

 楽しかったでしょう?」


「まあ、楽しくない訳ではなかったような、気もしないことはないのだけれど……」


「素直じゃないね」

 と、祐気が笑う。


 つられて笑うのは車椅子の女性患者で、顔に深いしわが刻まれている。


「寒くないですか?」

 と、祐気は車椅子の前にしゃがみ、膝かけの毛布を直していた。


「看護師は、祐気君の天職に見える」


「え~ そう? ちょっと嬉しいな~

 でも、まだ助手だけどね」


 祐気は、女性患者の足をさすりながら言った。


「僕ね~ 前は仕事がいやで、いつも『お散歩』で愚痴ぐちをこぼしていたの。平野先生がきびしくてさ、『いやなら辞めろ』って、怒るんだ」


「カルシウム不足」


「生活があるって言うと、『じゃあ、働け』って言う。

 はっきりしているよね」


「『単純』っていうの」


「でもね、仕事がいやなのは劣等感だって、『乗り越えたら居場所が見つかる』そう教えてくれたのは先生なの。だから資格を目指しているんだよ」


 『こころ先生』のうけ合い。以前、凛も聞いた台詞だった。


「僕は、あの人好きだな~」


 凜は水を差すこともできず、祐気の顔を眺める。ノートの花丸を喜び、人の教えを従順に受け止める。真似のできない笑顔は、柔軟な心が作り出せる技だった。



 人に興味を持つ――


 柔軟な心で問えば、記憶を刺激する平野拓海と返ってくる。


 岡島医師の言葉を借り、『記憶を解凍するため』と言う理由があれば、拓海を追う視線に正当性が生まれた。




「ねえ、はじめさん? 平野先生って……」

「お凜さん、また平野先生の話ですか?」


 はじめは苦笑いで、コーヒーを受け取る。


「小樽に来る前は、東京にいたって本当?」


「そう~聞きやしたぜ。

 東京の自動車学校で働いていたらしいっすよ~」


「どうして首になったの?」

……って、言い切ってもいいんですかね~」


「それ以外、考えられないでしょう? 

 生徒に手をつけたとか、横領とか、きっと犯罪がらみですよ。

 何か聞いていませんか?」


 凛がカウンターから身を乗り出すと、はじめは困った顔で拓海に視線を横に流した。


「直接、俺に聞け!」

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