第2話  いつか見た景色

「最初から素直に乗ればいいのに、食堂のおばさんは口が軽い。今日中に噂になるな」

 拓海は、片眉を上げて微笑む。

「今日は俺からハンドルテクニックを盗め。無料の個人レッスンだ」

 拓海に手を握られ、置いたのはシフトレバーだ。拓海の手が重なると、二速、三速とセダンはスピードを上げていく。凜にとって、前のめりにならないシフトチェンジは新鮮でプロの技を知る。カーレーサーの夢は、この日の午前中、はかなく消えた。


 右手には日本海の景色が流れ、並行して函館はこだて本線とオロロンラインが走っている。小樽築港ちっこうを過ぎると、オロロンラインは海岸から市街地へと延びていた。

「今の標識を右折すれば、小樽運河ですけど……」

「そこは、あとだ。先に、おまえの喜びそうな場所に行く」

「何も知らないくせに」

 凛は、シフトレバーから手を離して横を向く。車は道道から脇道にそれ、急勾配の『地獄じごくざか』へと向かう。細い路地に入ると正面に見える建物は石作りで、八角堂の赤い屋根には十字架が陽ざしに照らされていた。


「教会だ……ここ、何て教会?」

とみおか教会」

「わたし、前に来たことがある。ここを探していたの」

 凛はシートベルトを外し、車が止まり切る前にドアを開ける。

「こら、後方確認はどうした?」

 の声も聞かず車から飛び降り、洞くつで手を合わせるマリア像に足を止める。『こんな古い教会で誓うのもいい』風に紛れて、懐かしい声が蘇った。


「中世のヨーロッパみたい」

 凜が見上げると、ゴシック様式の外観に窓は色ガラスが飾られていた。

「ここの聖堂は、昭和初期に作られたの。平野先生は知っていた?」

「いや」

「設計は、確かドイツの宣教師」

「へ~え、詳しいな」

「うけ合いだと思う。この教会は来る者を拒まない。誰の罪でも浄化するって、教えてくれた」

「おまえの結婚資金の男か?」

「――多分」

「そう……」

 静粛せいしゅくの中、拓海のため息が凛の鼓膜を刺激する。風が拓海の髪を揺らし、凍った空気がダイヤモンドダストとなって降りそそぐ。見慣れぬ顔の拓海は、十字架を見たまま動かない。風で舞った雪が目尻を濡らし、泣いているようにも見えた。


「――そろそろ行くぞ。静かすぎてもこけねぇ」

 拓海はサングラスをかけ歩き出した。

 横顔は鼻筋の通った端正たんせいな顔立ちだ。だが、正面を向くと、ただの野蛮やばんじんに見える。付け加えるのなら女好きも人格のひとつで、ハンドル操作以外は、凜の手を握りシフトをチェンジする。拓海にとってMT車の楽しさは、機能性を抜いて女性とのスキンシップが一位のようだった。


「いつになったら、小樽運河に行くの?」

「昼飯食ってからだな。その前に連れ込みホテルでカロリー消費っていうのはどうだ?」

「――ああ、このレストランがいいです。ここにしましょう」

 凛はシフトから手を離し、イタリア国旗が揺れる建物を指さす。クリーム色の外壁に窓が埋め込まれ、緑色のドアは巨人が出入りできるほどの高さがある。店内はチーズの匂いが漂い、厨房右手に石釜が見えた。

「この店、前に来たことがある……」

「そうか、だからここに決めたのか?」

 拓海はパスタをおかずに、石釜焼きピザを食べる。猫舌の凛はドリアを手で冷ましながら店内を見渡す。視線を戻すとホワイトソースに食べかけのピーマンが二つ刺さっていた。


「あの、わたしもピーマンは得意じゃない」

「俺は好きだよ」

「じゃあ、食べなさいよ!」

 凛は、テーブルをドンと叩いた。

「そうか~おまえはピーマンだめか? わるい、わるい」

 拓海は笑いながらホワイトソースをからめ、うまそうにピーマンを頬張る。その間、無意識に動く凛のフォークは、グリンピースを刺し続けていた。

「いいか、それをひとつでも俺のピザに乗せてみろ、泣きながらテーブルを持ち上げるぞ」

「グリンピースがだめなの? 子供じゃあるまいし」

 凛はピザにかじりつく拓海の前で、ゆっくりまわしてから口に入れた。


 小樽運河に着く頃、街は天気予報を裏切り雪模様になった。

 拓海の背中を眺めながら、凛は雪道を歩く。右手に持つ袋には雪だるまのガラス細工とオルゴールが入っている。拓海は、連れまわした店で必ず土産を買ってくれた。

 昼食をとったレストランは、自分で決めてはいない。口説き文句はイタリア国旗を超えたタイミングだ。運河沿いで「ここのお店……」と、記憶が戻るたび、「前に来たのか?」と拓海は笑っていた。


「平野先生に、聞きたいことがあります」

「ああ?」

 拓海がふり返ると、凜も足を止めた。運河は日が暮れると同時にイルミネーションが輝き、見惚れる人で込みあう。凛が中央で立ち止まると、手を繋いだカップルが、煩わしそうに避けて行った。

「おまえは邪魔だ。隣に来ないと、不幸が悪さをするぞ」

「――あなたは、誰?」

 拓海を見る凛の視線はきびしい。かすんでいた小樽旅行の景色が拓海によって確かな記憶に変わっていく。教会を二人で見上げ、レストランで海を眺めた。ガラス細工の小物は、あの日も雪だるまだった。街灯の下で手招く顔は、翔と共有していた思い出を土足で踏み荒らす男に見えた。

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