第2章 賢者の街

第1話  マニュアル車希望

 『朝里あさり自動車学校』は、高校卒業までに免許取得希望の生徒で、稼ぎどきである。冬休みを挟み、あえて冬道からはじめる生徒が多く、冬の恐怖心を教習所で慣らす。

 第一段階、見極みきわめまで十五時間、それで仮免取得の花が咲く。一日二時間の技能講習をこなす凜にとって、十日もあれば開花する予定だった。


「おまえは、AT車に変える気はないのか?」

「ない」

「そうか……」

 シートベルトを外し、拓海は運転交代の指示を出す。坂道発進三日目、未だ登頂成功せず。六号車のうしろには順番待ちの列ができていた。

 順調に単位を修得できたのは学科のみで、シフトレバー操作の不手ふてぎわが、開花予想の足を引っ張る。先週の交差点でついた補習も三日、右折の指示にハンドルを左にまわしたことで、花のつぼみはしぼんでいた。


「何度も言うが、AT車は楽だぞ」

 勤務終了後、『喫茶・お散歩』に顔を出した拓海の第一声だ。

「わたしはマニュアル車希望です。これだけは譲れません」

 普段、口数の少ない凛だが、運転技術に関して意志は固く多弁たべんになる。技量に似合わない知識を持ち性能にも詳しい。凛はマニュアル選択の正当性を熱く語る。その話をカウンターに頭を預けて、拓海は聞いていた。


「やはり、マシンとの一体感ですね。AT車には、メリハリがありません」

「動かせての話だ……」

「マニュアルトランスミッション、略してMT。エンジンの巨大なパワーを感じ、ミッションを思い通りにあやつる。運転の楽しさは技術の高さです」

「半クラッチもできないくせに」

「素早い加速が命のコーナーリング、いずれ平野先生にも、ヒール・アンド・トウをお見せしますよ」

 凛はカレーのオーダーも忘れて、興奮状態だった。無免許の祐気が、お付き合いで拍手を送る。その間、拓海はカウンターにうずくまったままで、「台本通り」と、ささやいていた。

「凛ちゃんって、すごいね~」

 祐気に言われ承認欲求の花が咲く。ただ、特殊とくしゅな用語を噛まずに言える自分が不思議だった。


「ねえ、凛ちゃん。今度の休みは、どこを見たい? 小樽には楽しいところが一杯あるよ」

「ああ、どこでも……」

 と言いかけ、凛の手が待ったをかけた。この言葉で、先週は身をもって北国の厳しさを知った。祐衣と祐気の「楽しいよ~」の言葉を信じ、向かったのは天狗山てんぐやま雑木ぞうきばやしだ。

 スノーシューガイドツアーのパンフレットを手渡され、洋風かんじきに足を入れる。それは、予想以上に重く凛の体力では使い熟せない。急斜面で足を取られ、顔面でパウダースノーを満喫した。


「楽しくない訳では、ないのだけれど……」

「じゃあ、真冬の乗馬体験は?」

「真冬がつかないコースがいい」

 凜は『小樽満喫、悠々ドライブ』と書かれた、観光案内マップを揺らす。翔と旅をした記憶を、確かなものにするためには、景色に頼るしかない。鐘、オルゴール、そして海沿いのレストラン。小樽運河周辺も外せない。ただ、見覚えがある建物は点在していて、車がないと不便だ。

 普通免許保有者の誰に借りを作るかと、考えること三分。悩んでいるうちに、祐気と拓海の商談が成立していた。

「九時に駅前集合、ガソリン代と昼飯は、鼻くそのおごりだな?」

「うん、それでいいよ」

 返事をしたのは、祐気だった。


 休日の天気は快晴で、凜の心を楽にさせた。雪が降る日は、首の違和感が喉を詰まらせる。その症状は車に乗ると強く表れ、目的地前でタクシーを降りることもあった。ただし、運転席以外だ。どんなに教習所が吹雪いても、ハンドルを握ると不快な症状は消えていた。

 きっと、わたしの夢は、カーレーサーかもしれない――

 記憶がない以上、妄想は無限。そして壮大だ。凜は朝里駅前で、左手を広げ太陽にかざした。


「俺をタクシーと間違えているのか?」

 凛が視線を下げるとサングラスを頭にのせ、拓海が窓から顔を出す。黒のセダンに乗客なし。夜勤明けの祐気を南小樽病院から拓海が連れてくる予定だった。

「祐気君は?」

「腹をこわして、来ない」

「で?」

「よく考えろ。腹をこわしたんだぞ? トイレから出られる訳が、ないだろう」

「――予定は、日を改めて」

 凛が背中を向けると、クラクションが鳴り響く。

「鼻くそ、凛! 乗るまであとをつけて鳴らすからな」

 セダンで道をふさがれ、凛は通りを渡れない。騒がしさに駅舎から顔を出した学生と、駅前食堂のおばさんの視線が痛かった。

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