第12話  最終日

 『喫茶・お散歩』最終日の朝、除雪覚悟で引き戸を開けると、車一台入る道ができている。積雪五㎝が命取りの屋根の上で、はじめが手をふっていた。


「あの……いつも、雪かきありがとう。

 それと……行ってきます」


「おお?」

 と、はじめはスコップを抱きしめる。


 通りを渡っても「お気をつけて~」と叫ぶはじめの声が聞こえる。凛はその声を背中に受けて走り出す。休憩を取らずに坂をのぼりきる体力はついた。




 店に出向くと、カウンター席には小さなお客が一人、「凛、遅いぞ~」と健一がパンケーキを食べている。

 今日は大安の土曜日で結婚式の着つけに借り出された京香に代わり、店は保育園になっていた。


「凛ちゃんがご指名よ。健一君のお世話を頼むわね」


「ご指名と言われても、わたしは保育経験がありません。

 預かって、けがでもさせたら」


「けがをしない子は、人の痛みも分からないものよ」

「はあ……」


 健一は保育園の年長組で、第一次反抗期真っ最中だ。凛を「そこの、鼻くそ」と呼び、差し出したココアを飲み「薄くてまずい」と、鼻で笑う。


 その口調は、百二十㎝に縮んだ拓海を見ているようだが、勤務は残り八時間と思えば勇気がわく。凛は喫茶店最終日を、子守りでしめくくることに決めた。



「おい、積み木で、今のガキが喜ぶとでも思っているのか?」

「普通、喜ぶでしょう」

「ほかに男を楽しませる技、持っていねぇ~のかよ。

 最近の女は使えねぇ~な」


 舌を鳴らす健一の姿に、少子化万歳と凜は両手をあげた。その後、「男の遊びを教えてやるぜ」と誘われ、向かった先は高台の『見晴らし公園』だった。


「健一君、そろそろ帰ろう。

 日が暮れてきたし、お母さんが迎えにくるよ」


 疲れ知らずのボブスレー遊びを見守り、体の冷えは限界だった。

 海岸から吹き込む風で、体感温度は氷点下を超えている。


「健一君?」

「まだ、五時だぞ。ひよこの時間じゃねぇ~か!」

「どう見ても、ひよこでしょう」

「あと一回でやめるよ。やめればいいんだろう?」


 健一がボブスレーを引きずりながら、凛の背中に雪を蹴りあげた。


 その仕草を叱りもせず、凛は夕日に染まる海に見惚れている。ガードレールから見下ろす街並みは色鮮やかで、凛の記憶を刺激していた。



 二月の小樽旅行は三泊四日だった。夕日を見た記憶はあるが翔の表情が思い出せない。記憶の中の人影は整うにつれて頭の痛みが襲う。


『きれいだろう? 凛に見せたかった景色だ』


 その声は、鐘の音に紛れて耳に響く。揺れていたのは、道の両脇を照らすろうそくの光で、ここまで思い出すと、決まって胸の息苦しさを覚える。


 耳ざわりりなのは、大勢の悲鳴とガラスのわれる音だ。

 凛は首にまとわりつくマフラーを外すが、激しい動悸に動けなくなった。



「凛、聞いてんのか? 

 おまえもうしろに乗れって、一気に店まで帰ろうぜ」



 車のライトに照らされ、クラクションで我に返った。

 坂を見上げると、道路の真ん中でボブスレーにまたがり、健一が手をふる。


「この坂って、おもしれ~んだぜ」

 と言いながら、ブレーキ代わりの長靴を離した。


「健一君、だめ――!」


『見晴らし坂』の下には、途切れることのない車のライトが揺れている。

 帰宅ラッシュで一番交通量の多い時間帯だ。


 凛は、健一を捕まえようと手を伸ばすが、足がもつれ、体ごとボブスレーに倒れ込む。その重みで加速が増し、ボブスレーは直滑降で市道に向かう。


 かかとでブレーキを真似てみたが、長靴は跳ねながら飛んでいった。



 凛が悲鳴をあげると、車のライトが遠目に切り替わった。勾配率二十八%の坂を、検定中の教習車がアクセル全開で追いかける。車内から生徒の悲鳴が聞こえていた。


「平野先生~ 僕にはできません」

「やれ! やらないと不合格だぞ!」


 助手席から足を延ばし、拓海はアクセルを踏み込む。ハンドルのブレを右手で押え、ボブスレーの右横にまわり込んだ。


 ガードレール横の歩道は雪でおおわれ、道がないせいで人は歩いていない。ボブスレーを追い越し、教習車が狙うのは電柱を越えた先の段差だった。


「先生、逆走――――!」

「今だ。おまえもブレーキを踏め! ハンドルをまわせ!」

「横転します~」

「させるんだ、ボケ!」

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