第10話  あの日

 拓海が三人を追って出て行くと、照明を絞った店には、銀次郎と京香だけが残っていた。

「あの四人がいるから、大丈夫よ」

 銀次郎は、京香にコーヒーを差し出した。

「腹から声が出たわ。大きな声ね」

「でも、バカなことでもしたら……みんなで守ってきたのよ」

「その気なら、ここに来てすぐやっているわ。涙が出るから、止め方を知る。怒鳴るから、怒りの収め方を学ぶのよ」

「そうね……」

 京香がカウンターに出したお守りを見て、銀次郎は微笑んだ。

「交通安全祈願?」

「そう、あの子に渡そうと思って……でも、いつまでたっても渡せないの」

 お守りは淡いピンクで桜の刺繍ししゅうがしてある。京香がうつむくと落ちた涙で花びらの色が濃くなった。


「――わたしが、健一に気をとられたの。避けられなかった」

「京香さん」

「ねえ、わたしはどうしたらいい? 詫びたところで、あの子の大事な人は戻らない」

 京香は、お守りを握りしめて、カウンターにすがりついた。

 カーブを超え、健一から視線を道路に戻すと、正面に青の乗用車が見えた。とっさにハンドルをかわすと、ボディーをこする衝撃で車体が揺れ、横転する車がバックミラー越しに見える。京香の軽自動車は山側に埋まり、雪がクッションになったおかげで、後部座席の健一にケガはなかった。


「凛ちゃんは、意識があったのよね?」

「ええ……」

「何か言っていた?」

「『翔』って、名前を呼んでいたわ。瀧川翔さん、あの子と同じ年よ」

 突き破られたガードレールと、立ちのぼる煙を京香は今でも夢に見る。崖から身を乗り出すと車のシャフトは折れ曲がり、電柱に食い込んでいた。

 うしろを走っていたのはジープだった。運転席から飛び出したはじめが、雪山目がけて崖を飛び下りる。「女は生きているぞ――!」の声に、京香も崖下に駆けつけると、はじめがパールで窓を割っていた。


「毛布だ! 誰か毛布を用意して来い!」

 はじめの声に祐気が走り出す。その場に残っていた祐衣は、「わたしは看護師です」と、名乗る。運転席は雪に埋まり、飛び散った血がフロントガラスをくもらせていた。

「そこの女、手を貸せ!」

 はじめに怒鳴られ、京香が駆け寄る。ありったけの力で車内から引きずり出すが、凛の手を翔は離さない。血の気を失くした指が爪を立て、凛の肌に食い込んでいた。


「『ごめんなさい』って言いながら、指を一本ずつあの子から引き離すの……いやな感覚よ。忘れられないわ」

「仕方がないじゃない。彼は即死でしょう?」

 銀次郎が背中をなでると、京香はうなずいた。

「あれは事故よ。凛ちゃんは生きるために小樽へ来たの。ちょっと乱暴だったけど、それが分かってよかった。力になるチャンスはいくらだってある。きっと、励ましていた声を思い出すわ」

「そうね。そのときは、あの子に謝らないといけない。どうやって詫びたらいいのかしら……」


 お守りを握りしめる京香の手が震える。『朝里駅』で凛の到着を待つ間も、同じように震えていた。役目は『見晴らし坂』に導くことだった。改札を抜けて来た凛の姿に京香の目は潤む。


 歩いている―― ちゃんと歩いている――


 その姿を見ただけで、泣けた。あの日、見知らぬ者同士が救出に手を貸したことで、縁を結ぶ。月命日には事故現場を見下ろせる『見晴らし坂』に立ち寄り、『喫茶・お散歩』で暖を取る。凛に思いをはせ、「あのお嬢さんは、どうしているかしら」が、常連たちの口癖になっていた。


 その夜、店を出た京香は自宅に戻らず凛の長屋を訪ねた。玄関前には、拓海が雪の壁に寄りかかっている。門番のように腕を組み、肩にはうっすら雪が積もっていた。

 部屋の中からは「いい加減に帰ってよ!」と怒鳴る凛の声が聞こえる。ボディーガード三人の来訪に、手を焼いている様子だった。

「威勢がいいわ」

「ああ、ずっと三人を怒鳴りっぱなしだ」

「通りの向こうまで聞こえる」

「何も心配いらない。今夜は、あの三人に任せよう」

 拓海の言葉に京香はうなずく。お守りを入れた封筒を郵便受けに忍ばせ、二人は長屋をあとにした。

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