第9話  なみだ

「どうしたの? 悩みでもあるのかしら」

 忙しなく店の片づけをする銀次郎の背中を、凛が追う。辞表一枚目は、銀次郎が倒したコーヒーで茶色に変わり、二枚目は洗い場に落として文字がにじむ。三枚目、クリアファイルに挟んだが受け取ってもらえず、日は沈みかけていた。


「何度も説明しましたが、キャンセル料を払い、オタモイの自動車学校に移る決心ができました」

「あらあら」

「つきましては、小樽駅近くに部屋を借り、その周辺でアルバイトを見つけます」

「それは困るわね~」

「短い間でしたが、大変お世話に……」

 冷蔵庫の前まで銀次郎を追いつめ、勝利は目前だった。早口だが、言いたいことは言った。しかし、銀次郎が出した契約書に凛の顔がこわばる。斜め読みで二往復すると敷金、礼金、前家賃と書いてある。月の家賃が十二万の長屋とは今日まで知らなかった。


「土地家屋の査定に無理があります。それに、礼金は誰に対してのお礼でしょうか?」

「紹介した、わたし」

「家賃は?」

「紹介された、わたし」

「おかしくないですか?」

「ぜんぜん、凛ちゃん先払いしてくれないから、十日で一割の金利がついて八十万超えるわ」

「ぞくに言うトイチ……」

「今まで通り、お店を手伝ってくれるなら、ただでいいのよ」

 この流れに、返す言葉は練習していなかった。三枚目の辞表が、シュレッターで刻まれ姿を消す。そして、アンティークな鳩時計が午後七時を知らせると常連客が顔を出した。


「平野先生よ~いいブツが手に入ったぜ。今夜もどうだい?」

「上物か?」

「おうよ」

「いく……」

 顔を寄せ合い、拓海とはじめの密談が成立する。サングラスを鼻まで下げて二人はふくみ笑い。危険な取引に感じるが、荒い息づかいで、エロイ声を発する裏ビデオ観賞会だ。ただし、今夜の上映場所に問題があった。

「平野先生? どうして、わたしの家で見るの」

「おまえのテレビが大きいからだ」

「で?」

「局部までよく見える」

「拡大鏡を使えば?」

「使った結果の答えだ!」


 拓海は真剣な顔で立ち上がると、今夜の宴会用にオードブルの指示を出す。しかも、タラバガニ入りの海鮮オードブルだ。凜の歓迎会をかねて「おまえのおごりだ」と、拓海に言われ動悸が激しくなり、参加の意思表示をした、祐衣と祐気を見て立ちくらみが襲う。

『意志を持ちましょう。いやと言えば未来は開けます』

 こころ先生の名言の中で、凛が一番好きな言葉だった。


「もう、いい加減にして!」

 凜の声に、拓海がふり返った。

「もう、たくさん。もういやだ!」

 凜は洗いかけの鍋をシンクに放り投げ、拓海をにらみつけた。

「何がオードブルだ……何がビデオ観賞会だ。頭のネジが、一本足りないんじゃないの?」

「威勢がいいな。冷静じゃないと安全運転はできないぞ」

「あんたが教えるかぎり、安全な運転などない」

「言うね」

「教習所を変え、この店も辞める。あんたに習った免許じゃ国家資格が泣くよ!」

 凛の呼吸は荒く、頭の痛みに顔をしかめる。銀次郎の手がふらつく体を支えると、凛はその手をいやがり払いのける。人の温もりより、油がはねたガスコンロに手をついた。


「あんたは遠慮がなさすぎる。どうして人との距離感が分からないの? 十年来の友人でもないくせに!」

「おまえみたいに、愛想のないのも困るぞ」

「大人しくしていればいい気になって……キャンセル料? 払ってやるよ。前家賃? トイチで返せばいんでしょう!」

「凜ちゃん、ちょっと、落ち着きなさい」

 銀次郎が背中をさする。黒目が揺れ、次に来るのは吐き気だ。しかし、拓海のリアクションはそのリスクに見あわない。預金額の高さに拍手を送り、使用目的に興味津々だった。


「もしかして、結婚資金か?」

 冷やかす声に凛の顔つきが変わると、「当たり」と拓海は笑い出した。

「男はどうした? ふられて一人で新婚旅行に来たのか?」

「拓海君!」

 京香が諭しても、拓海の口は止まらなかった。

「寂しい話だな。傷心の身じゃ、小樽の寒さは堪えるだろう。おまえを置き去りにしたのは、どんな男だ?」

 頬杖をついて拓海が笑う。店内は静まり返り、時計の音だけがときを刻んでいた。


「――あんたみたいなクズに答えない」

 凛が瞬きをすると、涙がこぼれた。

「クズとは攻撃的だな。おまえはラジオの『お悩みダイヤル五五六』を聞いたことがあるか? 『助けを求めている人ほど、攻撃的になるものです』俺が尊敬する『こころ先生』の言葉だ」

「え……」

「助けて欲しいか?」

 と、拓海が微笑む。ラジオはリスナーを選べない。同じ人間を師として仰いでいた不幸に、凜は打ちのめされていた。

「凛ちゃん、家賃は冗談よ~キャンセル料だって、かかるわけがないでしょう。拓海君、ちょっとはしゃぎすぎたのね」

 銀次郎が笑っても、凛はエプロンの紐を解き、帰り支度をはじめた。

「せめて年内」と、口説く銀次郎に出した答えは十一月末まで。日捲りカレンダーが十二月に変わるまで、残り二枚だった。


「拓海君、やり過ぎよ!」

 店を出て行った凜の姿に、京香が声を荒げた。

「あの子、泣いていたじゃない!」

「切れるまでやるって、約束だ」

「だからって……」

「何をされても、何を言われても、感情が出ない方が危険だ。そのうち、独り言がはじまり、頼るのは目に見えない者だ。その先は、言わなくても分かるだろう」

 拓海の顔を見て、京香の体が震える。その横を「ボディーガード一号発進!」と、祐衣が走り抜ける。「同じく二号」と祐気が手をあげ、三号のはじめは「そんなこと、させないぜ」と、京香の肩をひとつ叩いて店を出て行った。

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