第8話  道しるべ

 その夜から三日、凜は泣きながら夢を見る。枕に写真を忍ばせ、慌ただしさに泣けない自分のいましめとして、翔の笑顔を使った。

 夢はいつも自転車のベルからはじまり、遺影いえいの翔は幼い笑顔に戻っていく。制服は、目黒めぐろにある修徳しゅうとく学園中等部の頃だ。翔は自転車のベルを二回鳴らす。それが、十分待ったという合図になっている。凛が窓からのぞくと、笑いながら手をふる翔が見えた。


「翔さんは、こりずに迎えに来るわね」

「はい」

「同じミスを繰り返す人間を、愚図ぐずといいます」

「はい……」

「時間にルーズな癖が、あなたの今後の課題ね?」

 母親の鋭い視線を鏡越しに見ながら髪を二つに結ぶ。段違いの結び目に母親は指をさし、左右対称にそろうまで何度でもやり直させる。スーツケースにセーターを詰めるより、馴染みのある冷たい顔だった。

 凛は物心がついてから、親に口を返した記憶がない。花柄のスカートに手を伸ばすと、「あなたは緑が似合うのよ」と言われ迷うことなく、そのスカートを選ぶ。従順な姿を見せると母親の顔がやわらぐからだ。それが、愛情を得るために必要な行為だった。


 中学生特有の反抗期もなかった。「緑が似合う」の台詞が、母親から翔に変わったせい。誕生日が三日違いの幼なじみで、生まれた病院も一緒、通う幼稚園も一緒、七歳の春に手を繋ぎ、キスは八歳の夏だった。 

「凛、そこを右に曲がるよ。薬屋さんの前は工事中だから危ない」

「大丈夫だよ~」

「右だよ。右に曲がって」

 後方で翔が鳴らすベルは、ハンドルの向きを変えるまで凛の耳に響く。 

修徳学園まで自転車で十五分、翔は先頭を譲り見守りながら舵を取る。右と言えば右を向き、止まれと言えば足を止める。それで、つまずくこともケガもしない。翔の敷いたレールは心地よく、その上ではしゃいでいればよかった。


 すべての罪は、怠慢たいまんな心だった。自分の歩く道さえ、翔にまかせたなまけぐせが、冬の天使の顔色を変えた。道しるべのない今、無傷で明日は探せない。

 翔が悲しげな顔に変わると、夢の終わりと凛は悟る。告げられなかった言葉を寝言にのせて、意識はオロロンラインをさまよう。二時間おきに目をさましては涙をぬぐい、眠りに落ちれば、泣きながら翔の夢を見た。

  ◇

「ねえ、目が赤いけど大丈夫?」

 鏡の中から京香が顔をのぞく。ここ数日の睡眠不足が凛の顔色を悪くさせ、判断力を鈍らせる。開業三十年目の『スズラン理容美容室』には、昔に流行ったと見られる髪型のポスターが貼られ、その横に東京の下町でしか見られない古い型のおかまがあった。


「あの……本当にできますか? レイヤー入りの前下がりボブ」

「この道十三年のプロよ。雑誌で切っている写真を見たわ」

「写真……」

「まあ、十三年のうち結婚してブランクが十三年」

「はい?」

「離婚後、再就職して半年よ」

「つまり、ペーパー美容師……」

 と言った瞬間、京香の左手が凛の前髪をつかむ。逃げる間もなくシャキッとハサミが鳴いたあと、眉毛と一緒に丸くした凛の目が出てきた。


 いや――――! 


 声は出ないが、口の形が『い』と『や』を作る。引きつる凜の顔を見て、「今、そろえるから」と京香が笑顔で言った。

 凛の悲劇は『ひよこ保育園』に、熱を出した京香の息子のお迎えを頼まれたことからはじまる。不審な顔つきの保母の視線をかわし、「おまえ、誰だよ?」と、ののしる健一、六歳の手を引き『見晴らし坂』をのぼる。そのお礼が、短い前髪になった。

 その日の午後、自動車学校で凛の髪は拓海の餌食えじきだった。交差点教習で左を確認するたび目が合い、助手席で笑い転げる。その結果、笑って授業にならないと言う理由で、補習がついた。


 もう、いやだ―― もう、たくさん。いい加減にして!


 すべて心の声だった。口を伝わらない分、不満細胞の動きが激しい。長屋に戻ってから通帳を引っ張り出し、残高の確認を終えると凛はひとつ息を吐く。常連たちと縁を切るための、新規アパート契約及び教習所のキャンセル料は、足りる計算だった。

「銀ちゃんママに、お話があります!」

 翌朝、声は腹から出ていた。あとは、不満を言葉にすればいいだけだった。

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