第7話  普通免許取得

 その日、環境の変化は小樽で暮らす凛の寝覚めを悪くした。

 セーブモードで一晩中働くストーブが部屋を暖め、快適な朝のはずだった。


 テーブルに散乱する書類は、『朝里自動車学校入学案内の手引き』と書いてある。取り寄せたのは一週間前で、拓海が教習所勤務と知らなかった頃だ。


 教官は一人じゃないと心に念じ、授業料三十一万を一括で支払ったのが

『唇を食う』と言われた日の朝だ。


 その日の夕方、キャンセルの電話をすると事務員ではなく拓海の声が響く。

 鼻をつまみ、声を変えて挑んだが、「鼻くそか?」とすぐにばれた。


《キャンセルすると、三十五万かかるぞ》

「どうして入学金より高いの?」


《いいからさっさと来い。来ないと補修代の五千五百円取るぞ。

 一日四単位、一カ月で大変な額になる》


「クーリングオフを、お願いします」


「営業契約じゃないから、使えね~よ。バ~カ!」

 と言われ、電話は切れた。

 



 次の日、凛が店に出向くと朝の九時を過ぎている。カウンターに頭を乗せ、十時からはじまる教習所通いの苦痛と戦う。遅刻を叱りもせず頭をなでる銀次郎の手に、母性を感じた自分が怖かった。


「銀ちゃんママ、小樽に自動車学校はひとつだけでしょうか?」

「『オタモイ』にあるけど、ここからは遠いいわ。平野先生は優秀よ」


「平野先生以外で、取れる免許が欲しいです」


「ひと月もあれば、取れるでしょう? 

 お店はいいから、行ってらっしゃい」


 凛は肩で息をすると教本をかばんに入れる。希望の光は拓海の人気だった。


『六号車はすぐ埋まる』

 の噂が凛を癒す。しかし、教習所のボードを見ると六号車の下に『浅倉』の文字があった。




「ご指名、ありがとうございます」


 素早く助手席に乗り込んで、拓海が言った。


「仏の教官こと平野拓海、趣味は昆虫採集です」

「――昆虫採集が趣味の男が苦手な、浅倉です」

「いいぞ、台本通りだ」


 拓海は、鼻唄交じりでA4のバインダーをめくる。凛の個人情報を音読すると、スリーサイズを聞いてから書き込む準備をした。


「運転に必要ですか?」


「シートベルトの調整と、座席の沈みぐあいに必要だが、まあいい。

 胸は余裕だし、ケツは見事な沈みぐあいだ」


 ケラケラ笑う拓海を見て、キャンセル料が安く感じた。


 五十分の密室授業は予想以上に長く、無駄な会話が多い。免許取得に生きがいを見出すはずの初日は、たいした希望もなくエンジンをかけるだけで終了した。


「明日は、シートベルトの止め方だ」

「もう少し、テンポよく教えていただけませんか?」

「明後日は窓の開閉だ。ちゃんと来いよ」

「路上に出るまで何ヶ月かかるの?」


「俺の気がすむまでだ。次が待っている。

 さっさと降りて自力で帰れ」


「え?」


 凛を降ろすと六号車は排気をかけて立ち去る。横を見事なハンドルさばきで通るのは五号車だ。拓海が降ろしたのは、校舎から一番遠いS字とクランクの中間だった。




 その夜、凛は無性むしょうに母親の声を聞きたくなった。


『気持ちの整理をつけてらっしゃい』

 と、見送ってくれた顔が小樽に来てから思い出せない。


 新しくできた人間関係の整理で、気持ちは散らかったままだ。

 泣くことも今日は忘れていた。

 

《凛ちゃん? 凛ちゃんなの……?》

「うん、遅くにごめんね。寝ていた?」


《大丈夫よ。それより、小樽はどう? 

 お友達はできた?》


「――海に沈めたい人なら」

《あら、それは大変ね~》


 正美の笑う声に、凛も笑った。


「お母さんの言う通り、小樽は坂が多いね。

 前に来たことがあるの?」


《テレビで見たのよ》

「ふ~ん、お父さんは寝ている?」


《お父さんは……そうそう、寝ているのよ。

 夜勤明けなの》



 夜勤の言葉に凛は首をかしげた。母親は小学校教師で、父親は男子校で数学を教えている。


 野球部の顧問をしていることから、合宿中に家を空ける日はあるが夜勤の言葉は聞き慣れない。入院中に父親の見舞いを受けた記憶はなく、退院後も声さえ聞いていなかった。


 受話器から何度も名前を呼ばれ、凛は「ん?」と返す。


 正美の興味は常連客の話ばかりで小樽での弊害を告げても、ただただ笑っている。教習所通いに反対する訳でもなく、一人娘の小樽暮らしに不安は感じていないようだった。


《凛ちゃん、みなさんと仲よくね》


「あの人達を生けにえにするから、翔を返してくれないかな……」


《翔さんはいないの。もう、いないのよ》


 凛は念を押す声に受話器を遠ざける。受け入れるために息を深く吸う必要があった。意識をして呼吸をしなければ、酸素が体を巡らない。その儀式を繰り返し、初めて声が出る。


「――分かっている」


 しばらく振りに聞く正美の声は優しく、たった一度の深呼吸で声が出た。


「もう遅いから切るね」

「暖かくして寝るのよ。また電話を……」


 正美の声に重なるのは、忙しなく誰かが走る音だ。ナースコールに似た音がかすかに聞こえ、『急患よ』の声を最後に通話は切れた。

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