第6話  第一村人 平野

 回覧板のように町内をまわった凜の噂で、『喫茶・お散歩』は通常の穏やかさに戻った。もともと興味本位の客が多く、凛の愛想のなさにリピーター率はゼロ。ただ、噂は根深く、買い出しに商店街を歩くと住人達は目をそらす。誤解を解くほど親しくもなく、誤解を笑い話で流せるほど心の余裕はなかった。


 長屋暮らし七日目の朝、引き戸を開けると膝まで積もる雪が出迎える。パウダースノーの感触は、除雪三日で苦痛に変わった。

「凛ちゃん、おはよう~毎日、よく降るね~」

 祐気のあいさつを無視するのは、何となく。

「ここが終わったら、お凜さんのところも、きれいにしますぜ」

 屋根の雪を下ろすはじめに、横を向いたのは心の底からだった。


 その日、朝一番の仕事は氷わりで、スケートリンクのような店先をつるはしで叩いて溝を作る。客が足を取られないための知恵だ。数分で息が切れ、氷をわるために小樽へ来たのではないと、今あるすべての恨みを込めて氷をわる。

 海岸線に視線を流すと石狩いしかり湾は快晴で、晴れた日ほど気温は低く、舞い上がった雪で風の道筋がよく見える。凛はつるはしを引きずり通りを渡るが、途中で風に流されるカモメを見上げた。


「おい、仮免車両に引かれたいのか?」

 凛がゆっくり横を向くと、車の助手席から平野拓海が顔を出す。運転席でハンドルを握る生徒の顔は引きつり、急ブレーキをかけたタイヤが、雪道をけずっている。車体には『朝里自動車学校』と印字され、検定中のナンバープレートをつけていた。

「こいつが検定落ちたら、おまえのせいだぞ。邪魔だから避けろ!」

 ガードレールまで非難すると、窓から拓海がにらみつける。きびしい顔は勤務終了後、店に出向いても続き、上下紺のスーツで教習所の制服を着ていた。


「そこの『鼻くそ』、おまえのせいで、あの生徒は不合格だ」

「ご注文をどうぞ」

「動揺がおさまらず、坂でスリップしたあと電柱にぶつかった」

「言わないと勝手に出しますよ」

「いいか? 通りは右を見て左、そしてもう一度右だ。渡るときは一気に渡れ、分かったな」

 拓海は凛をにらんだあと水を飲み、おしぼりで顔と脇を拭く。そのおしぼりをカウンターに投げつけトイレに向かう。ドアの向こうから、小ではなく大で二回水を流す音がした。

「やることが、ちっちゃいですね?」 

「やるときは大きくなる。今、確かめて来た」

「目の錯覚じゃないですか?」

「俺の視力は2.0だ」

 拓海は新聞を広げ凛の視線をかわす。その後、何も注文せずに読んだ新聞をカウンターに散らかして店を出て行く。基本、客に対して

「ああ……」と「ええ……」しか言わない凛は、拓海とだけ会話が成り立っていた。


「凛ちゃんは、拓海君と気が合うみたいね」

 銀次郎が、新聞をたたみながら言った。

「せこい、いやがらせをする、あの人ですね?」

「誠実で心が広い人よ。そのうち凛ちゃんにも分かるわ」

「はあ……」

 それから一週間、心の広さは何も感じられなかった。カレーを盛ればライスが少ないとクレームをつけ、コーヒーが薄いと銀次郎に入れ直させる。そして今日は、五分で笑える小話こばなしを要求して来た。

「わたしは、落語家ではありません」

「少しは客を喜ばせろ。脱いで踊れとは言わないが、いい気持にさせるのがサービス業だろう?」

「風俗でも行けば?」

「昨日、行って来た」

 拓海の言葉を聞いて、教習所に通う生徒が悲鳴をあげた。拓海は『朝里自動車学校』に勤務して三ヵ月、鬼の教官平野と恐れられている。しかし、人気は高く、『喫茶・お散歩』の常連と聞きつけ、昼時は教本を持った女子生徒ばかりだった。


 狭い世界でしか威厳いげんをたもてない男の、典型的なパターン――


 などと思いながら、凜はポットのお湯を沸かす。先生と呼ばれる心地よさを凡人が手にするとろくなことはない。歓楽かんらくがいを歩けば客引きは誰でも、『社長』もしくは『先生』と呼ぶ。その程度の先生に思えた。

 沸点ふってんの合図に凛は火を止め、銀次郎に教えてもらった、コーヒーの旨みが一番搾り出される温度に下がるまで、カウントダウンをはじめる。ポットを持ち上げると、拓海の話に食いついていた生徒の声が聞こえてきた。


「本当だ。あの人、唇にホクロがある」

「エロイだろう」

「エロイの?」

「そのうち、唇と一緒にホクロを食ってやる」

 一瞬、沈黙したあと、生徒たちの悲鳴が店に響く。そのせいで、ネルドリップを目がけて注ぐはずのポットのお湯はシンク台を流れ、旨みは一滴も抽出ちゅうしゅつできなかった。

「安心してください。そのような事故は起こりません。わたしの好みは……」

「『わたしの好みは、繊細かつ温和な人であり、あなたのような非人道的な人間ではございません』って、言う気だったのか?」

「え……」

「いいぞ、台本通りだ」

 カウンターに肘をつき、拓海が笑う。「台本?」っと、凜は首をかしげるが、用意した言葉はすべて正しかった。

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