第2話 過去が手招く街
凜が
座卓の上に並んだ荷物を
「仕事を辞めるなんて、もったいないわ」
「お母さんに何度も説明したでしょう? 一年近く休職しているし、これ以上、迷惑をかけられない。それに、プログラマーとしては致命的なの。こんな目じゃ、役に立ちそうもない」
「視力は、いずれ戻るわ」
正美は、セーターをスーツケースに詰めた。
「凛ちゃんは、これからどうするの?」
「小樽に行ってから考える」
「そう……それがいいかもね」
「翔のお母さんに、あいさつをしてきた。
元気そうだったよ」
凛が写真たてをセーターの中に埋め込むと、髪が揺れるたび線香の匂いが鼻をつく。絶やすことのない煙が家全体に染みつき、呼び鈴を押す前から漂う。
表札は『瀧川』、凛の家から徒歩十分の場所に翔の実家はあった。
凛を出迎えたのは「入りなさい」と言った瀧川
話をした記憶はないが、小学校の教師であり、おだやかな人格者と凛は聞いていた。凛が頭を下げると線香の流れが変わり、背中を丸めた美千代にまとわりつく。
若くして夫を失い、美千代の生きがいは一人息子の翔だった。
その女性から未来を奪った事実が凛の胸をしめつける。
いつまでたっても仏壇を譲らない美千代の背中を、凛は見ているしかなかった。
「さみしがり屋の主人が、翔を連れて行ったのかしら」
返事もできずに、凛は目をつぶる。
「凛さんが無事でよかったわ」
の声に、体が震えた。
おそるおそる目を開けると、美千代が敷いている座布団の色が目に刺さり、六帖の和室が血の海に見える。
正面から目を見る勇気はなく、合せていた手は美千代がふり返らぬようにと祈っていた気がした。
「凛ちゃん、ふたが閉まらないわ。
ちょっと手伝ってくれる?」
正美の声に凛は顔をあげる。いつの間にか荷造りは終わり、凛が入れたのは写真たてがひとつ。手を出せば、やり直された習慣が凛を部外者の顔にする。
凜が手にしていたのは『小樽ガイドマップ』で、『喫茶・お散歩』に赤丸がつけられていた。
「小樽に叔母さんがいるなんて、知らなかった」
「まだ、記憶が飛んでいるのよ。
会えば思い出すかも」
「仕事と部屋まで用意してもらって、いいのかな」
「最初は驚くけど、世話好きな人よ」
「驚く……?」
「それより、小樽は寒いし坂が多いから、転んだりしないでね」
「お母さん?」
母親の顔に、一瞬だが霧がかかったように見えた。
生まれも育ちも東京の母親から、北海道の話を聞いたことがない。
「何とか入ったわ」
と笑う顔が、他人に見えた。
「気をつけて行くのよ。ちゃんと電話をしてね」
「ん……」
「翔さんを見つけても、着いて行ったりしないわよね?」
「大丈夫。帰って来るから」
「約束よ」
正美に何度も手をさすられ、凛は肩に寄りかかる。しかし、線香の匂いを消すのは馴染みのない消毒薬の香りだった。
◇
小樽の初雪は例年より一週間遅い十一月十六日、朝から降り続く雪で街は一気に冬景色に変わる。
この日の夕方、JR
改札機が二つの無人駅は、首をまわさずとも駅舎内を見渡せる広さだ。
待合室にはコの字に並ぶ椅子に男が一人だけ腰をかけている。
雪まみれで入ってきた中年の男が、その姿に足を止めた。
「
それで、待ち人は来たかい?」
「いや……」
「うちの息子が、世話になっているらしいね~
『
「不器用な奴は、何度でも『仮免を落とす』と伝えてくれ」
「さすが鬼の教官だな。おてやわらかに頼むぜ~」
男は笑いながら手をあげると、『拓海先生』と呼ばれていた男はうなずく。
前を通るとき、伸ばしていた足を下げた仕草に、凛は
第一村人の名前を、凜は心の中で呟く。
その瞬間、まぶたが開き視線が絡み合う。
時間にして十五秒。拓海の瞳に映り込むのは、石油ストーブの小窓から見える炎で、凜は視線を外せない。
拓海が目を閉じても、炎の残像が凜の瞳を揺らしていた。
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