インナースノー

雨京 寿美

第1章 見晴らし坂

第1話  この世の終わり

 金属音は、シートベルトを外す音だった。


 瀧川たきがわしょうの指がオレンジ色の中央部を押すと、シートベルトは胸を滑りながら元の場所に吸い込まれていく。


 浅倉あさくらりんには、その姿が悲しい仕草に見えていた。


 雪道を転がるタイヤは、雪をかむ暇もなく、横滑りでカーブを越える。右手に見えるはずの日本海は、横殴りの雪で白一色の景色だった。


「凛、聞こえた?」


 翔の声に、凛は首をかしげた。


 本当は、聞き返す余裕などなかった。やさしく微笑む横顔に見惚れ、次の言葉が出てこない。見つめ合う時間がほんの数秒短ければ、幸せに手が届いた。


「もう一度言うから、ちゃんと聞いてよ。雪がとけたら、あの教会で……」


 その続きを、もう一度。今度は、すぐにうなずく――


 ふたたびハンドルを握り、凍りついた道に視線を戻す時間を贈りたい。そして、海岸線のカーブを超えたら、幸せそうに涙をひとつ落とす。


 返事に戸惑う顔が、翔に取って最後に見る自分であってはならなかった。


 冬の天使は、答えをじらした代償だいしょうに、翔をさらっていく。


 二月十四日、小樽の街がこの世の終わりに見えた。


 横転する車内で、翔に手を伸ばすが髪に触れることができない。


 ガードレールを突き破り、崖を落ちていく瞬間、潰れたシャフトの隙間から翔の手が見える。指の先からしたたり落ちた血が、チョコを結んだリボンの色を変えていた。




「浅倉さん? 浅倉凛さん、聞いていますか?」

「はい……」


 凛の視線は、ガラス窓から医師へ流れる。


 視点が合うまで、さっき見ていた映像がぐるぐるまわり、医者が羽織る白衣がスクリーンの代わりになっている。


 黒目の揺れが治まるまで吐き気と戦い、何を聞かれても返事ができない。看護師がビニール袋を用意したところで、気分は少しよくなった。


「どうしても、小樽おたるに行きたいですか?」

「そのつもりで、リハビリをしました」


 凛はうつむきながら、左薬指の指輪をまわす。

 退院後、一週間目の来院はエレベーターのボタンを押すだけで動悸が激しくなる。


 悲鳴をあげる体より、かんたんに第二関節を通りぬける指輪を凛は気にしていた。


「意識が戻って、まだ、三ヶ月です。長い時間、眠っていた訳ですから、体の負担ふたんは大きい。旅行は、おすすめできません」


「日常生活に支障はありません」


「同乗者の命日は二月と聞いています。年が明けてからにしませんか?」


 医者の言葉に、凛はうつむきながら首をふった。


「小樽が呼んでいますか……」


 医者はひとつ息を吐くとカルテを机の上でそろえ、診察済みのケースに入れた。


「定期的に診察は受けてください。これが条件です。頭痛や目の痛みがあるときは要注意ですよ。記憶が戻るたび、不快な症状が出るかもしれません」


「ただ、雪が見たい。それだけです」

「そうですか……例年だと、そろそろ初雪が降るそうです」 

「はい」


 凛はうなずいてから、また指輪をまわした。


 事故から八ヵ月が経っていた。


 昏睡こんすい状態から意識が戻っても、この三ヶ月の記憶はもうろうとしている。


 杖を見て歩けなかったことに気がつき、リハビリをして筋力のなさを知る。

 季節が変わり、十月になってようやく自分の歳が、二十三歳ということを思い出した。


 体の傷はえても、目の充血じゅうけつだけは治まらない。


 もともと、目はいい方だった。疲れ知らずで、目薬ひとつさしたこともない。しかし、右目だけがぼやけ、視力を補うメガネでかろうじて 0.5を保っている。


 翔から流れ出た命で赤く染まったせいか、眼球に傷もないのに、赤い点がいつまでも消えなかった。

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