Emotion Complex

『明日の選挙を控え、各候補者は制限時間内の午後八時ギリギリまで、声高々に有権者へ訴えておりました。明日の天気は雨ということもあり、投票への足も遠のくのでは――と懸念されております』

 淡々としたアナウンサーの言葉は車内に溢れることなく、溶けるように消えた。

 カーディーラーに勧められるまま取り付けたスピーカーは値段以上の働きを見せている。音が四方から包むように響くのだ。歌を聞く分には良いが、ニュースなどでは語り手がすぐ傍にいるようで薄気味悪い。

 ハンドルを握る手に力がこもる。

 個人の領域が自分さえも気付かぬうちに取り払われては心穏やかでいられない。

 捻じれた感情がスピードに還元される前に、深く息を吐いて、煙草に手を伸ばした。

 火をつけると、紙の焼ける匂いときつめの香りが車内を満たした。

 吐き出した煙の向こうで夜がしっとりと濡れている。

 雨は細かく、それ自体が視界を塞ぐことはないが、フロントガラスで雫がへばりつき、滲む夜は更に歪んだ。その雨だれをワイパーが思い出すように動いては拭った。

 時計は日付の変わり目を目指していた。

 代わり映えのしない夜の山道は、雨という味方を得て更にその凡庸性を強くした。

 眠気覚ましにつけたはずのラジオが、逆に癇に障るのなら無い方がましである。

 僕はスイッチに手を伸ばした。

『続いてのニュースです。先月から多発している連続婦女バラバラ遺棄事件の続報です』

 僕は手を止めた。

 存在を消されずに済んだアナウンサーが僕の隣で続けた。

『府中市、日野市、多摩市で発見された女性の身体の一部はそれぞれ別人のものであることが司法解剖の結果分かりました。警視庁の発表によりますと、少なくとも五名の女性が犠牲になっているとのことです。合同捜査本部では残りの部位を探すと共に、聞き込みを強化する方針を固めています』

 ふん――と、僕は鼻を鳴らすと煙草の灰を灰受けに落とした。

「まだ被害者さえ特定できてないのか――。『警察はバカじゃあない。だが時として間の抜けた集団と化す』。誰の言葉だっけ?」

 煙草をもみ消しながら独りごちたが、結局考えあぐねて思い出すのを止めた。

 灰受けには同じ長さの煙草が同じ向きで並んでいる。今吸い終えたばかりの煙草も例外ではない。

 おや――?

 霧散していく煙草の煙の向こうに、僕は人影を見た気がした。

 山道は見通しの良い下りとなっていたが、ヘッドライトの光量では逆に闇を強調しているだけであった。街灯でさえ左側の山壁に圧倒されている。遠い街の光の方がまだ明るい気がする。

 そんな曖昧な視界の中、街灯の下には確かに人影がいた。

 山道の下流で、距離もかなりあるのにそれは浮き立って見えた。薄く光を反射し、手足は無く、まるで道路から生えた突起物のようであった。

 僕は幽霊などは全く信じていない。恐れも感じていない。それらが恐ろしいのは、その逸話を聞く個々の想像力のせいであり、その存在自体の畏怖ではないのだ。

 幽霊は恐くないから存在を許されていない――そう思っている。この世に存在する全ては恐ろしい。だから存在を許されているのだ。

 近付くにつれ、滲む人影はその正体を明らかにしていった。

 薄い光は、雨合羽が雨と街灯の光を反射しているせいであり、雨合羽だからこそ手足が無く見えたのだ。

「その正体はこの世で最も恐ろしい生物でした」

 小さくつぶやくと、その人影の前で止まることができるように減速していった。

 ニュースではまだバラバラ事件のことを放送していた。アナウンサーだけではなく、もう一人話し手が加わっていた。

 事件を分析する専門家のようだ。咽喉の奥で発するような聞き取りづらい声で犯人の精神状態を解説している。

 かいつまめば犯人は精神に異常をきたしていると言いたいようだ。

『人間を切り刻む時、ヒトは果たして正常な思考で臨めると思いますか?』

 分かりきった事を――と、僕は鼻で笑うように小さく言った。

 雨合羽姿が助手席側に見える位置で自動車を止めた。

 雨合羽から露出している顔は女のそれであり、その白さも街灯の光に滲んでいた。

 助手席側の窓を開ける。ひんやりとした風が車内の空気を乱す。

 雨合羽が近付いてくる。

「街まで乗せていってくれませんか?」

 女は窓から覗き込むように訊いてきた。

「なんかトラブルかい」

「ええ、クルマがエンストを――」

「そうかい。そりゃあ災難だったな」

 僕は言いながら助手席のドアを開けてやった。

 女は雨合羽を脱ぐと、礼を言いながら乗り込んできた。

 冷気と共に女が運んできた匂いに、僕はわずかに顔を歪めた。

 土臭さと、かすかな生臭さ――良い匂いではない。

 気付くと女も顔を歪めていた。

 煙草が嫌いなのかと、僕は灰受けを閉じた。

 それで匂いが消えるわけではないが、女には誠意が通じたのか、に――と笑うと、助手席に腰をかけた。

 雨合羽は既に丸められ、女はそれを足下へと置いた。

 スカートではなく、濃い色合いのジーンズを履いている。雨をかなり吸って張り付いているようだが、脚の形を見せるほどには至ってない。

 ち――と、僕は小さく舌打ちした。

 裾に泥がしがみついている。舗装されていない山道を歩いてきた証拠だ。

 助手席の窓の向こうへ目を向ける。山への獣道が雨に邪魔されることなく見える。

 シートベルトを締めるのを待つふりをして、僕は女を観てみることにした。

 エンストといいつつ自動車は見当たらない。それに、こんな夜更けにこんな所で立ち往生している女に、僕はひどく興味が湧いていた。

 全体的に小柄だ。手足身体全てが細いが胸にも大した隆起はない。しかしそれがウィークポイントになっているとは思えなかった。顔も小ぶりで、上がり眉が気の強さを演出している。よくよく見ると、顔の白さも病弱さを感じない。僕の判断の範疇で美人の部類に入る。

 髪は毛先から根元まで、茶から黒のグラデーションになっている。素直そうな毛質をショートボブに揃え、それがよく似合っていた。

 サーモンピンクのジャケットも、中の白いシャツも薄手であった。

 膝に意外と大きめなハンドバッグを大事そうに抱えていた。

 シートベルトを締め終えた女が僕を見た。

 観ていた事を感付かれないように平静を保ちながら、ゆっくりと自動車を発進させた。

 雨で擦りガラスのようだったフロントガラスが自動車の移動でやっとクリアになった。その向こうは変わらぬ夜山の下り道であった。

 よく怪談ものでは目的地に着くと、女は消えてシートは濡れていると聞くが、既に助手席は湿り気を帯びているはずだ。乗せた女は陰湿で無口だったともいうが、この女はよく喋った。

 女は高崎浩美といった。

 二年前に大学を卒業して証券会社に就職、現在もそこで営業職として勤めているらしい。恋人はいるが、全然相手をしてくれないと、至極明るい口調で話し続けた。

 あえて訊いたわけではないが、高崎が勝手に、しかもすごいテンポで話すので、僕は相槌を打つのが精一杯であった。

 しかし、明るく話す女の目は少しも笑っていない。今も続くあのニュースに耳が傾けられているのを僕は見抜いていた。

「気になるかい?」

「まあね」

 高崎は平然と答えた。少しは驚くかと思ったので拍子抜けであった。

 この事件、気にならない?――と逆に訊き返してきた。

「ならないな」

 うそつき――と高崎が呟いた。

 僕はそれを聞き逃さなかった。自動車の心音に紛れるほどの小さな声であったが、嘲笑を含み、棘のような鋭さは僕に刺さった。

 高崎を盗み見たが、窓の方を向いて顔は見えなかった。

 しばらく車内にはニュースしか流れていなかった。時間にしてほんの二、三分のはずだが、僕には長く感じられた。その内容さえ覚えていない。

 『棘』はそれ自体に痛みは無いが、気になってしょうがなかった。

 何かを言わなければ――。

 僕は話題を探したが、出てくる言葉は全て不適当に思え、切り出せずにいた。

「この事件ってね――」

 声は唐突に高崎の方から上がった。

 バラバラ事件の事かい?――と僕は訊いた。話の流れで分かってはいるのだが、助けられたという思いを消すために、わざと訊き返したのだ。

 しかし高崎は全く気にせずに続けた。

「被害者は五人なんだって。全部女性よ」

「ひどいね、女性の敵だ」

「発見された頭部は五つ、身体も五つ、だから警察の発表じゃ被害者は五人となってるの。だけどね――」

 視線がこちらを向いた。見ずとも、挑むような視線は容易に感じ取れる。ナイフの刃の腹を押し当てられたように左頬がひんやりとした。

「発見された腕は二組、脚は三組。どういうことだと思う?」

「発見されていないからさ。警察が一生懸命捜しているのはそこだろ。無いに決まっている」

 返事は無かった。

 静けさがすう――と下りて車内を包む。薄いビニールを押し当てられたような息苦しさにハンドルを持つ手が汗ばんだ。

 横目で隣の女に目をやると、身を乗り出す程にこちらを見ていた。凝視という表現に近い。一挙一動を見極めるように目だけは力が入り、その他の部位からは表情が抜けていた。そのせいか、女の意図が全く掴めなかった。

 目が合うと、くすっと笑って座席に戻っていった。

「その通り。貴方って頭が良いのね」

「当たり前のことだろ――」

 そうね――と、高崎は低く答えた。

 ラジオはニュースを終了し、軽快なノリの音楽と共にトーク番組へと移行した。

「でも、見つかると思う?」

「何が? 犯人? 腕?」

 高崎は答えなかった。

 こちらを見もしないが、僕の答えに気を悪くしたわけではない。口元に薄い笑みが浮かんでいる。どちらかというと、会話を楽しんでいるようにも見える。

「警察はバカじゃないから成果は出るでしょ」

「日本の警察の検挙率は半分もいってないらしくてよ。冤罪も少なくないと聞くわ。もしそれがホントなら半分という検挙率さえ怪しいわよね」

「警察だって人間だよ。完璧を求めるのは酷だよ。それに凶悪犯罪の検挙率は世界に誇れるって何かで読んだよ」

「それは日本人が小心者だからよ」

 どういうこと?――と、僕は訊き返した。

「小心者だから凶悪犯罪を起こすと平然としていられなくなる。小心者だから凶悪犯罪が起こると世論が恐くて捜査に身が入る。結果として凶悪犯罪に限り、検挙率が良い――ということよ」

 僕が反論を考えていると、窃盗の検挙率は二〇パーセントだって――と、高崎は駄目押しをした。

「窃盗を犯している人は生活がかかっているから良心が薄い。仕事と割り切ってまでいる。だから尻尾を出しにくい」

 へえ――と、気の無い言葉で返したが、僕はかなり感心していた。

 高崎の持論は正鵠を射ている。警察の肩を持つ必要は無いのだが、反論の芽は全て摘まれてしまった。

 それどころか、窃盗の常習犯が足を洗えずに再犯を繰り返す者が多いのはそのせいか――と、高崎の持論を勝手に展開していた。

 僕なりに高崎の思考に近付こうとしたわけだが、彼女は更にそれを超越していた。

「だからこの犯人も捕まらないわ」

 高崎ははっきりと言った。揺るぎようの無い自信から組み上げられた言葉であった。

 その根拠はさっきの持論とは別の所にありそうである。

 僕は是非それを問い質したくなった。

 しかし、ただ答えを訊くだけでは悔しい。少なくとも対等の立場になりたかったから、答えを引き出したという形にしたくて、攻めやすい所を探し出し、それを言葉にした。

「『この犯人』ってバラバラ殺人犯のことだろ? 連続しているってことはそれだけボロが出やすいってことじゃないか」

「この事件は先月から始まったの。決して集中的に起きているわけじゃない」

「そうなの?」

「発見はほぼ一週間置き、遺体の損傷具合から殺害されてからそれほど日にちは経っていないらしいから、殺害自体もほぼ一週間置きということになるでしょ」

「確かに集中はしているとはいえないけど――それが?」

「警察は未然にそれを防ぐどころか、犯人も特定できていない――ということよ」

 高崎は正面を見据えたままであった。

 フロントガラスの向こうは夜の山道であった。下っているのか、曲がっているのか、感覚を喪失しそうなほど闇が深い。

 そんな単純な風景でも、高崎と僕とでは見ているものが違っているような気がしてならなかった。押し潰されそうな息苦しさに負けずに言葉を継いだ。

「防げなかった――というのは分かるけど、何故犯人を特定できていない――って言えるんだい?」

「特定できていたら防げているでしょ」

 簡単なことであった。

 ああ――と、僕は感嘆の声を上げてしまっていた。

 高崎がそれを見て笑った。

 僕が容易い理由にさえ気付かなかったことを笑ったのではない。彼女の真意を探ろうとした企みが、あっけなく崩れたことを笑ったのだ。

 そうなのだ。僕は自分自身で敗北宣言したに等しい。

 だが、笑ってやり過ごせることでもない。僕はすぐに言葉を継いだ。

「犯人を特定できてないから捕まらないってことだろ」

「それは違うわ」

 高崎はきっぱりと言い切った。

「犯人を特定できないと『逮捕されない』のではなくて、『逮捕できない』よ。警察の立場の話ね」

「犯人は捕まらないから一緒じゃないか」

 違うわよ――と高崎は、含み笑いを残しながらもう一度言った。

「『犯人を捕まえられない』のと、『犯人が捕まらない』は同義じゃないわ」

「ああ、なるほどね。『警察が自滅する』のでなく、『犯人が警察の上を行っている』――の違いか」

 納得はいったが、それではふりだしに戻っていることになる。

 僕は辟易して言葉に詰まってしまった。

 道程は山道を過ぎ、勾配も緩く、切り出された崖は木々に替わっていた。樹木は影絵のように両脇から覆い被さり、闇の深さは増していた。しかし、ここを過ぎればもうすぐ街であった。

「貴方はこの犯人の心理が分かって?」

「心理――というと?」

「犯人の気持ちを理解できるか――ってことね」

「そんなものわかるもんか。第一、他人が考えている事自体分からないんだから。所詮、ひとは自分以外のものにはなりえない」

 答ではなく、質問から始まるのが授業のようで癇に障った。だから答えるのが面倒だ――という投げやりな言い方をしたつもりだった。だが、高崎には通じなかったらしい。

「質問を変えましょう。殺人を犯す者は正常か否か――貴方はどう思う?」

 結局、無難に答えている方が馬鹿を見ずに済むらしい。

 そうだなあ――と言って、僕は考えてみた。

 確かに法律や倫理観のみで照らし合わせたら『殺人』というのは重罪だ。懲罰だって軽くはない。普通に考えたなら割には合わない。それでも犯したのならば通常の思考を外れている事になる。そういう意味では『正常』という概念から逸しているであろう。

 僕はそれを言葉にして高崎に伝えた。

「私もそう思うわ。だけどね、だからといって精神に異常をきたしてしまっているかといえばそうではない。概して普通の人なのよね」

「殺人を犯している最中もかい?」

「もちろん。そうでなければ人は殺せないわ。例えば、どこをどうやったら息の根を止められるか――とか、どこが急所でどうすれば手際よくできるか――とか、経験、知識、思考、それらを総合し、判断できてはじめて『殺人』は成り立つわ」

「詳しいね」

 僕は茶化したつもりであったが、自分の空笑いのみが乾いた音をたてただけであった。

 いつの間にかラジオは高崎に止められていた。

 霧雨も雨としての頭角を現していた。粒ほどの水滴となった雨は木々の葉をすり抜けて強く車を叩いていた。何かに到達してこそ雨だ――そんな存在感を知らしめているようだ。

 高崎は、フロントガラスの向こうへと吐き出すように続けた。

「人が日常を失ってしまう瞬間っていうのは、殺人を犯した直後じゃないかしら。自分の仕事の成果を目の当たりにした時ね」

「瞬間――だけなのかい?」

「ええ。それを過ぎてしまえば、次に頭に浮かぶのは後始末のこと。どうやったらばれずに済むか――。ひとは知力の限りを尽くすの。日常に戻るために」

「全てが正常な判断のもとに――か」

 ちらと横目で見ると、高崎は嬉しそうに頷いていた。

「そこで、殺した結果をどうするか」

「埋めて隠す?」

「場所によって度合いが変わるけど、得てして安易過ぎ。見つかりやすく、犯人を突き止められやすい。手段として、うまく隠すなんてありえないわ」

 じゃあ、どうする?――と、高崎は出来の悪い生徒に答えを導く先生のように訊いてきた。

 僕もあえて乗ってやった。

「処分する。切る、焼く、食う、溶かす――とか?」

「そうね。だけど、どの行為も普通のひとの精神状態では耐えられないことらしいわ」

「殺人を犯した人間が正常な人間であればあるほど、処分は不可能ってことか」

 生を失った物体と関わっている時間が長ければ長いほど日常は遠のくのだろうか。

 一番の楽な日常への回帰は『自首』ではなかろうか。猟奇事件であるほどに検挙率は上がる――道理だ。

「だったら、この犯人も捕まるだろう」

「そうかしら?」

「犯人が普通のひとであれば、遺体をバラバラにするのにも、そろそろ限界でしょ。だったら尻尾が見えてそこから御用――ってね」

 返事は無かった。

 雨の音が耳を打つ。

 謎の掛け合いには、常に何らかの反応を示していた高崎が黙っていたので、横目で窺ってみた。

 高崎は鼻をひくつかせて何かの匂いを追っていた。眉間に皺が寄っている。

「煙草、一本ちょうだい」

「これで良い?」

「貰うわね」

 高崎は手際良く一本取り出して火をつけた。吐き出した煙がフロントガラスを滑る。

「煙草、嫌いなのかと思った」

「嫌いよ。でもね、それよりも嫌なものを誤魔化せるなら我慢できるわ」

「嫌いなものより嫌なもの――?」

 訊くつもりで発した言葉ではないが、当たり前のように答が無いのもどこか据わりが悪い。高崎はそんな僕の気持ちを押しやるように煙を吐いた。

 アクセルを踏む足に勾配の圧力が薄くなった。相変らず道の両脇の木々が濃いが、遠くに信号の光が見えてきた。

「犯人はそろそろ限界だから捕まる――っていう貴方の意見だけど――」

 高崎は、そこで一度言葉を切ると深く煙を吐き出した。

 それはないわ――断言した。

 揺るぎない真実を語る口調は高崎らしいが、逆に僕は反感を覚え、また喰らいついてしまった。

「何故だ? 犯人は普通じゃないってことか?」

「逆。普通すぎるのよ」

「――からかってるのか?」

 まさか――と、高崎は灰受けを引いて灰を落とした。灰受けに並ぶ同じ長さの煙草に気付き、面白そうにつついている。

 自動車は鬱蒼とした樹葉のアーチを抜けた。

 それでも夜の重さは変わらなかった。雨と雨雲が協力し合って作った闇は、常について回っている。点在する建設物は影の突起物としてのみ、奥行きの無い平面を視覚に伝えていた。

 風景は広々としているにも関わらず、僕のイライラは限界に近かった。

「なんで犯人は捕まらないんだ? 普通ではできない解体を、普通すぎるからできるというのはどういう理屈だ?」

「わからない?」

 高崎は煙草を少し吸っては灰受けの煙草と長さを合わせていた。楽しんでいるのが傍から見て分かった。

 そちらに夢中で、僕の質問にはまともに取りあってくれない。

 それが更にイライラさせた。

 誰のためにあるのか分からない信号が赤に変わった。昼間でもその存在理由が不明な建設物であった。

 自動車を停車させると、フロントガラスに垂れる雨は勢いを増した。水の向こうで信号の赤が滲んだ。

「ひとがひとを切り刻む時、そのひとはまともな思考で臨めると思う?」

 高崎は先ほどのラジオと同じことを訊いてきた。

 できるね――と返すと、どうして――と訊き返された。

 僕は言葉に詰まってしまった。

 理由らしい理由は思いつかないが、導き出される答えは変わらず『できる』であった。

「私もできると思うの。その時はね」

 高崎は仕事をやり遂げたらしく、灰受けを閉じた。

「その時は必死なのよね、日常に戻ろうとして。でもやり終えてその場に散らばったものを見て、後悔するのは普通のひと。満足できるのが普通すぎるひと。どう、わかる?」

「わからないな。どうして満足できる人が普通すぎるひとなんだい?」

「それはそうする理由によるのよ」

 高崎が前方を指差した。

 フロントガラスに滴る滲みが青に変わっていた。

 動き出すのを待って高崎は言葉を継いだ。

「普通どういう理由かしら? 一番は運びやすい――ってことね。埋めやすいし。身元がすぐばれないってのもあるでしょうけど、それはいまいちね。でも、だいたいこんなものかしらね、バラバラにする理由って」

 僕は頷いた。

 ひとの部位というのはそれだけでもかなり重いが、運びやすくはなる。

「でもね、普通のひとにはそれが最悪な状況を引き起こすことになっているの」

「最悪な状況?」

「ひとは肉が欲しければお肉屋さんへ行くわ。決して生きた家畜を買ってくることはない」

「自ら捌くなんてことはしないな」

「できないのよね」

 する必要も無いし――と高崎は続けた。

「自分たちが口にしている肉にも命があった――なんて考えるひとはいると思う。でも、薄切り肉から元の内臓や骨、眼球、舌、脳味噌なんてものまでを想像するひとはいないわ。ましてや切り落とした足の断面なんて、普通のひとには想像つかないでしょうね」

「それを目の当たりにして、逆にパニックに陥るのか」

「人間自体が内臓や筋肉の入れ物だと気付いてしまい、生を失ったグロテスクにやられちゃうのよね」

「日常に戻ろうとする心は、自分の行為が日常から、より遠くなってしまっていることに気付いて自滅するのか」

 信号の数に比例するように民家の数も増えてきた。

 殺風景な車窓も陰影のメリハリが目立つようになってきた。変わっていないはずの雨足が強まって見えるのもそのせいかもしれない。

「目的は日常への回帰で、その手段として『バラバラ』が選ばれているに過ぎない。普通のひとの選択よ」

「普通すぎるひとの選択だとどうなるんだ?」

 そうね――と、高崎は一瞬間考えてから言った。

「アイドルの『追っかけ』っているわよね。あのひとたちはアイドルを崇拝しているわ。下手な宗教より性質が悪いくらい」

「それが『普通すぎるひと』かい?」

 僕は茶化し気味に言ったが、高崎は子供を諭すような目で見ただけで、話しは続けられた。

「あのひとたちは『神』の出したゴミさえ輝いて見えてるの。情報を『神』と共有したく、もしくは自分だけのものにしたくてゴミ袋をあさったりする。常識的にはありえなくても彼らには日常であり、日常である以上それが普通のことなのよね」

 高崎は三つ先の十字路で止めるよう指示を出した。

 気付くとだいぶ街中に入っていた。急に道幅が狭くなった気がする。

「アニメおたくと呼ばれる人種も同じね。雰囲気や容貌が似通ってるのは、それに集中して他が疎かになっているからじゃないかしら――って私は思ってるの。起きてから寝るまでずっとアニメやゲームのキャラのことばかり考えて、休みの日にはイベントに出かけたり、関連商品が出るときには生活より優先して並んだりする。ファッションに気を使っているヒマなんかないから着易いものを選ぶ。結果的に同じ雰囲気をもつことになるんじゃなくて?」

「でもそれが彼らにとって日常である限り、彼らにとって『普通』であり続けるってことだろ」

「趣味だからね。ひとは時に盲目になる。万人は収集家なの。なにかしら集めてるわ。例えば、私は壺を見たって価値は分からないし、花さえ活けていない壺の存在意義さえ見出せないけど、魅入られた人にとってそれが全てになるのよね」

 僕にはそれがすごく分かった。

 自らの価値観と判断で日常を犠牲にしてでも、収集するものは誰にでもあるものだ。

 僕がそう言うと、高崎は『私もそうよ』と嬉しそうに笑った。

「そういう意味を踏まえて『普通すぎるひと』というのは『盲目なる収集家』のことなのよ」

「死体の――? 否、身体の一部か。犯人はそれを収集しているということか」

「だから過程にへこたれることはない。なぜなら『殺人』も『バラバラ』もあくまで手段でしかないからよ」

 僕は言葉を失っていた。

 常軌を逸して見える高崎の論理は、パズルのように全てのピースが寸分違わずはまった。

 僕にとっては当たり前の真理であった。解けなかった方程式がやっと理解できたような清々しさがあった。

 指示された交差点を目指して減速する。途端に雨音が濃くなった気がした。

「犯人に悪意が薄いから犯行意識は遺体の状況から掴めない。平然として日常を過ごすから追跡も不可能。そして犯人が特定できないもう一つの理由は――」

 自動車が停まるのと、高崎がこちらを見たのが同時であった。

 僕に向かってピースのように指を二本立てた。

「犯人が二人いるから」

 高崎の声にはかなり冷たい響きが伴って聞こえた。

「脚を収集する者と、手を収集する者。これらがまるで一人のように動き回って見えるから警察は混乱しているのよ。犯行は同じことをしているように見えて、遺体発見現場は広域に渡っているから動きが掴めない。なんといっても二人の思考分の動きだからね」

 高崎は足下の雨合羽を寄せ集めるように手に取りながら言った。

「脚より手の方が露出しているから、『脚』収集家より『手』収集家の方が被害者数として勝るのよね。だってめぼしい『お宝』さえ見つかれば、後は手段を講じるのみだから、当然数に差が出るわ」

「縮まったかもしれないぞ」

 僕は意地悪そうに言った。

「それはないわ」

 高崎は断言した。異議の申し立てを許さない強固な口調であった。

 雨合羽を着込み、フードを被るとドアを開けた。

 ひんやりとした空気が車内に流れ込んできた。雨の生音が耳を打つ。

 高崎は礼を言うと、バッグを雨合羽の内側に入れ、大事そうに抱えて出て行った。

 車内の空気が乱れたせいか、微かな生臭さが再び鼻を打った。外からではなく中に篭っていた匂いだと僕はやっと気が付いた。

 高崎が、そうそう――と振り向いた。身体は既に雨に晒されている。車内を覗き込むように屈む雨合羽を、雨が飛び跳ねていた。

「移動に自分のクルマを使っちゃいけないわ。トラブルは致命傷よ。私みたいに投げ捨てられなきゃね」

「そう――なのか?」

「世論に弱い警察は犯人を捕まえるためなら、この雨の中、たとえ夜でも検問を張っているわ。気をつけてね」

 言い終えると高崎はドアを閉めた。

 雨の中から、そうしないと大事なものが取られるわよ――と、聞こえた気がした。

 女の姿は、手のない突起物の姿に戻り、バックミラー越しに消えていった。

 僕はしばらくその場で呆然としていた。

 自動車の中は僕一人の空間に戻ったが、高崎を乗せる前とは明らかに違っていた。

 悔しさの伴わない敗北感を持て余している――そんな感じであった。

 僕は取り出した煙草にも火をつけず、ただ咥えていた。

 火をつけられるほどに回復してから運転を再開した。

 だが、ほどなく僕の足は再びブレーキを踏んだ。

 フロントガラスの向こうに賑やかな光が見える。

 村の入り口辺りだろうか。まだ距離はある。血を思わせる赤いランプが回転の動きで待ち受けていた。

 僕はちらと後部座席に目をやった。

 一メートルほどの長細い木箱が座席を占領している。

 僕の『お宝』だ。

「盗られてたまるか」

 語気を荒げながら僕はサイドブレーキを外した。


(了)

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