「月の野点」(冒頭)
――いつもの。砂浜で待つ。
半ば落とした照明に、浮かび上がる白。
既に店は閉めてある。残っているのは自分ひとりで、誰かが忍び込めるような入り口などここにはない。
だから、誰の仕業であるかはすぐにわかった。
まだ熱を帯びた焙煎機のそば、まるで待っていたように置かれた一枚のカード。
疲れ切った体がぴんと張り詰めた。
走り書きの一行は確かに見知った文字だった。夜明け色のインクも何度も目にしている。しかし、その線の太さには覚えがなかった。また散財したのか。会うたびに手持ちの軸が増えているのはおそらく気のせいではないだろう。
――砂浜で待つ。
芳香と汗にまみれてグラフを睨む日々。満たされた時間が、飛ぶように過ぎていく毎日を送っている。探求するほどに深く世界はいくらでも時間を喰らう。
だから、もう長いこと顔を合わせていなかった。
夕方の海。ガラスの猪口。ふざけあった帰路。
どんなに話しても話し足りないと、名残り惜しく別れた日は遠い。
カードからかすかに、潮と、みずみずしい果実と、懐かしい月の匂いがする。
「……承りました。お客さま」
サイフォンに点す火の赤さが、思い出を照らし出した。
店で一番大きなポットを持ち出していることが露見すれば、詳しく事情を話すことになるだろう。それは別に構わない。しかし問題は、提供先を素直に応えたところで相手の信を得られる可能性が限りなく低いことだ。
この世のどこにもない、それゆえにどこにでもある図書館、なんて。
液体状の夜で満たした保温壜はずっしりと重い。店じゅうの戸締まりを確かめ、急いで車に乗り込んだ。一目散に自宅へ向かう。
今日だけは、すぐに足を運べない理由があった。
部屋へ飛び込み、大きなランチボックスの蓋を開く。買い集めた器具はひとつ残らず磨いておいた。そのときが来れば、いつでも持ち出せるように。
いつか、必ず。
交わした約束が消えたことなどない。
外へ出れば、今夜は満月。
ポケットから取り出したカードをやわらかな光にかざす。夜明けの色が静かにほどけ、宙へ漂う。
炎のように、水のように。
真円の月へ吸い上げられていく。
レンズのように、鏡のように、自分を見下ろす月には嘘がつけない。
訪れるのは初めてではなかった。
それでも、未だに緊張する。荷物を提げた手に力が込もる。
どこでもないどこかへ落ち込んだらどうしよう。
頭の隅で恐れているのは否定しようがない。
きみにそんなことするはずないだろ、と呆れられたけれど、それでも。
どこへも辿り着けないかもしれないという恐怖。
それは多分、いつも感じていることだ。
自分のしていることが徒労に終わるかもしれない。誰かがとっくに通った道を歩き直しているだけかもしれない。
一生、このまま、どこへも。
怖かった。
答えが出ないことが怖かった。迷い続ける覚悟はとっくの昔にできているのに、それでも拭えない恐ろしさがいつも付きまとっていた。
こんな姿で会いに行くのか、ぼくは。
人の恐れを月は待たない。
光は容赦なく降り注ぐ。
万年筆をくるりと回す。少々目が霞んできた。
ジェイドのマグの底で暗い澱が恨めしそうに貼り付いている。これはまずいと机の端で書類に追いやられたポットを取り上げると、なんとこちらも空だった。
珈琲は人に淹れてもらうのが一番美味い。そう信じているのに、よりによって一番忙しい時期に《いつもの》を切らしてしまう。
深夜まで働いた結果がこんな失態だ。やはり仕事なんて真面目にするものじゃない。
「しかし今回は真面目にならざるを得なかったのだった、まる」
馬鹿みたいな独り言を吐いて席を立つ。
ひとつひとつは大したことではない。けれど積み上がった雑務は人を走らせる。億劫がって放っておいたらこのざまだ。いったいいつになったらこのサボり癖も治るのやら。
石膏のごとく凝った腰を伸ばしつつ部屋を横切る。窓の鍵を外し、建て付けの悪いのをがたがた言わせながら開く。
目を閉じて、潮の匂いが全身にぶつかってくるのを感じる瞬間が何より好きだ。
絶えず打ち寄せる波の音。やわらかく降ってくる月の灯り。
そして、物語たちの息づく気配。
いつだってここは、ひそやかにざわめいている。
物語たちは生きている。生きて、待っている。誰かがやってくるのを。
自分を求める誰かを。
そんな彼らの世話をするのが私の仕事、というわけだ。
永遠の夜、月の砂浜。遠い水平線から流れ着く物語たち。彼らが永遠にここで憩うために、私――月浜定点観測所の一等司書は、日々せっせと献身している。
その結果として、大好物である珈琲を切らす。
「実はこの仕事、向いてなかったりして」
その問いについては、紆余曲折あって先代からこの職を受け継いだときに既に答えが出ているというのに。
思考が飽和しかけている。とっとと発注をかけるべきだ。
彼にもずいぶん会っていないし。
机に取って返し、抽斗を開ける。カードに綴るメッセージはいつも通り、走り書きでさらりと一行。
珈琲を口実に無理やり呼びつけるのは迷惑と承知のうえでペン先を走らせる。本当はこちらから出向くのが礼儀だけれど、なにせこっちのほうが手間がない。移動時間はほぼゼロだからだ。
インクが乾いたのを確かめて、ペン立てから虫眼鏡を取った。窓の桟に置いたカードの夜明け色に染まった箇所を狙う。
一直線に並んだ、月と凸レンズと、カード。
「焙煎所まで。よろしくね」
白い紙片は、ぱん、と音を立てて燃え出した。
マグネシウムの燃焼に似た目映い炎。そのひとひらが指先をかすめた。初夏の風のように涼しい感触を楽しんでいるあいだにもカードは燃え続け、やがて灰も残さずに消えた。
「……さて」
背伸びをひとつする。見上げた空に、変わらず月が照っている。
彼がそっと目を開ける頃、司書の部屋の鈴が鳴る。
司書が疲労のため息をつく頃、彼は深く安堵の息を吐く。
彼が提げた荷物を強く握る頃、司書は手のなかの万年筆を机に転がす。
司書が席を立つ頃、彼は目を上げる。
彼は潮風を吸い、司書は月の光を浴びる。
打ち寄せる波は限りなく、白い砂のうえ。
白い砂のうえ。
その建物は、静かに立っている。
月浜定点観測所記録集 第五巻 此瀬 朔真 @konosesakuma
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