「停車場にて」

千九十八号書架 ろ 二千十五区

八百五十六番

五千六百三十七巻 八百七十五頁 三百七十五章

八百二十四節

 

「停車場にて」


 ベンチのかたわらに花瓶がある。

 青年はずいぶん長いあいだ、それを眺めていた。

 青年はひとり、ここで待っている。

 何を、誰を待っているのか。それはわからない。ただ、そのときが来れば必ずわかる。曖昧な、それでいて強い確信だけがあった。

 暗闇のなかにひとつ、時計が立っている。駅名標を兼ねたそれを小さな灯りが照らし出す。

 白鳥の停車場。

 針は静止したまま、動かない。

 十時五十分は永遠かに思われた。

 青年が、ふと顔を上げる。

 その目には、暗闇のなかに青い花が点っているように見えた。

 自ずから光る花などない。しかし青年はその矛盾を当然のように受け入れた。

 説明のつかないことなど、この世界には山ほどある。

 かすかに細めた目が、ほどなく青い光の正体を見極めた。

 それは確かに竜胆の花であった。蛍を宿したようにうっすらと光り輝いている。

 立派な葉と茎のついた、たった今摘んできたように新鮮な花が揺れながらこちらへ近づいてくるのだった。

 青年はおもむろに立ち上がり、帽子を取った。すると青い光もぴたりと静止する。お辞儀をするようにゆっくり前に傾いだ。そして、今度は急いだ様子で向かってくる。

 二十分停車、の文字はない。

 しかし、会話のための時間は常に限られていた。


 息を切らしてやってきたのは、若い女性だった。

「あの……」

 話すのもやっとの様子女性に、青年は急がなくて良いと身振りで促す。女性は頷くと、胸に手を当てて深呼吸を繰り返した。

 その指のあいだから、青いひと粒の石が見える。揺れる水面をそのまま固めたような丸いペンダントだった。

 それが女性にとって、とても大切なものであると青年はすぐにわかった。ずっとそばで、その道行きを見つめてきた誰かの瞳のように。

 女性は最後にひとつ、大きく息を吸って吐き、青年をまっすぐに見つめた。

「電車は、まだですか?」

 思わぬ問いかけだった。

 青年は言葉の意味を理解しかねて、言葉を失う。

 確かにここは停車場だがそれは言葉の綾のようなもので、本当に線路が引かれているわけではない。女性の質問はただの冗談と見なされてもおかしくなかった。

 しかし、女性の表情は真剣そのものだった。

「……そうですか」

 まだ来ていない、と応えると女性はひどく肩を落とし、ベンチに腰かける。心細そうに竜胆の花を抱きしめた。

 その様子があまりにさびしそうで、青年はつい、どうしてここへ来たのかと声をかける。

「実は……よく覚えていないんです。気づいたらこの花を持っていて。でも、停車場へ行かなくちゃいけないことだけは。それだけは、わかっていました」

 そうしてひとりきり、暗く長い道を歩き続けてここへ辿り着いたのだと言う。

 なんと曖昧で頼りないことだろう、と青年は思う。怖くはなかったのか、と尋ねると、女性はきっぱりと首を振った。

「いいえ、ちっとも。きっと迎えに来てくれると信じていましたから」

 迎え、と口にした女性の目がやわらかく潤んだ。

 ここには、自分以外誰もいない。彼女の迎えはまだ来ていないようだった。

「車掌さんじゃないってことは、あなたもここで迎えを待っているんですよね。

よかったら……その、私の話を聴いてもらえませんか」

 再び、思いもかけない提案だった。

 何を、誰を待っているのか。それはわからない。ただ、そのときが来れば必ずわかる。

 だから、青年は頷いた。

「ありがとうございます」

 女性は語り始めた。彼女の恋人の話を。

 恋人が、遠い空へ去ったことを。

 夏祭りの夜、まさにこの停車場で、ひと時再会したことを。

 長い夢のような話だった。

「生きるって、罪を重ねていくことだと思うんです」

 どこか達観した瞳で、女性は言う。

「罪を重ねて、愚かなことを繰り返して。本当に恥ずかしくてみっともないことです。それを全部引き受けてでも、生きていたいって思えたから。いつかまた、彼に会えたとき、恥ずかしくない自分でいたかったんです」

 贖い切れない罪を背負っても、願うことがあったから。

「本当は何も変われていないのかもしれません。そう簡単に変われないですからね、人って。それでも私は、私を好きになれました。よく頑張ったって、ほめてあげられるくらいには」

 はにかむ笑顔には、傷つきながら前進をやめなかった強さがしっかりと根を張っている。それは誰にも奪われない宝物だ。全力で生きた者だけが持つ崇高な輝きだ。

 また会えたらどんな話をしたいですか、と青年は問う。

「もちろん、思い出話です」

 女性は笑う。

「二人でいたときのことも、私のことも。思い出ならたくさんあるんです。それこそ、星の数くらい」

 そのときだった。

 はるかに高く深い空、暗闇の天盤を横切る星の河から、高く鳴り響くものがあった。

 硝子の汽笛。

 渡るそらから呼びかける声。

 見上げた夜天を従えて、みるみる大きくなる影。

 どこまでも連なる線路は星の河岸を離れ、地上へと伸びてくる。

 風が辺りを駆け回り、青年は思わず帽子を押さえる。

 そして、かちり。

 針の鳴る音に振り向けば、停まっていたはずの時計は十一時きっかりを指している。

 音もなく舞い降りた汽車は、ひとつの客車の扉を停車場の正面にぴたりと着けて停まる。

 そしてその扉が、大きく開き――

志信しのぶ!」

 弾かれたように女性が立ち上がる。力いっぱいにその名を叫ぶ。

 現れたその人影が腕を開く。

「久しぶりだね、夏帆かほ――おつかれさま」

 まっすぐに飛び込んで、淡い青のシャツに頬を寄せる。その頬をあとからあとから、大粒の涙が伝っていくのが見えた。

 青年はそっと胸をなで下ろす。

 迎えに来たのだ。彼女が信じていた通りに。

 もう迷うことはない。どこまでも二人で、一緒に歩いていくだろう。

 夏帆、と呼ばれた女性は恋人に何か話しかけると、急に踵を返してこちらへ走ってきた。涙を拭い、大きく笑う。

「ありがとう、話を聴いてくれて。これ、お礼です」

 そう言って、あの竜胆の花を差し出してきた。

 青年は戸惑った。それは迎えに来てくれた人に渡すべきではないか、と尋ねたが、女性はやはり首を振る。

「あなたが話を聴いてくれて嬉しかった。本当は、ここで独りで待つことになったらどうしようって、不安だったんです」

 でも、あなたがいてくれたから。

 受け取った一輪は、青年を励ますように光をふくらませた。

「私ばっかり話してごめんなさい。いつかまた会えたら、そのときは、あなたの話を聴かせてくださいね」

 帽子を取り、頷くだ。それが返事になった。

 恋人たちは手を繋ぎ、客車の扉が閉じられる。

 りんと、また汽笛が鳴る。

 重い車輪がアスファルトを噛む。少しばかりの助走をつけて、汽車は軽々と浮かび上がった。そしてまっすぐに、振り返らずに、空の彼方へと駆け上がる。

 恋人たちが手を振る窓は、一瞬だけ彼らの笑顔を映して、すぐに遠ざかった。あとはひと粒の光となるばかりだ。

 その煌めきが星にまぎれて見えなくなるまで、青年は手を振り続けた。


 ベンチのかたわらに花瓶がある。

 そこには青い花が一本、眠たげな瞬きのようにゆっくりとした周期で点滅していた。

 腰かける青年がその緩やかな光を見つめている。

 停車場の臨む暗がりを、声がひとつ、近づいてくる。

 聴いたことのない言葉。素朴に繰り返される旋律。

 新鮮で、懐かしい歌だった。

 帽子を取って胸に当て、青年は立ち上がった。

 その気配を感じ取ったのか、ふと歌が止む。まもなく、青い光に照らされて人影が現れた。まっすぐにこちらを見る目と、ひるがえる長い裾が浮かび上がった。

 背中にはわずかな荷物。質素な服と、柔らかくこなれた靴が旅の気配を感じさせた。音もなく歩み寄り、一礼する。

「こんばんは」

 先ほどの歌と同じ、落ち着いて穏やかな声だった。青年は故郷の言葉で、おばんでがんす、と応える。

 やってきたその人物は――旅人は、それに少しだけ目を見張ったようだった。驚きはすぐ親しげな微笑に変わる。何かに耐えてきたように強張っていた口元がやわらかく緩む。

「お尋ねします。汽車は、もう行ってしまいましたか」

 恋人ともに汽車に乗り込んだ女性の顔が脳裏を過ぎる。青年は一言、まだです、と応えた。

「よかった。遅刻せずに済んだようです」

 これを、と旅人は手許の光を示す。

「これを持って停車場へ行くようにと、それだけ言われていたものですから」

 竜胆の花。

 つくづく、不思議な花だった。

 そうっと花弁に触れるとみずみずしくやわらかく、葉にも張りがある。本物の植物であることは間違いないようだった。

 どこでこれを手に入れたのか尋ねると、旅人は小さく肩をすくめる。

「覚えていないのです」

 そう言って、ここにやってくるまでのことを青年に話して聴かせた。

 旅人は、生まれながらに旅人だったのだという。

 どこにいても、誰といても、落ち着かない。自分の家さえ居場所であると感じられない。家族でさえ同胞と思えない。そしてある日、旅に出た。帰らない旅へ。

 行く場所も帰る場所もなく、一生を放浪に費やす。そういった人々は、決して少なくはないのだそうだ。見かければすぐにわかる。望んで彷徨う人などいない、だからみんなさびしい目をしている。さびしい目で、ひとりぼっちで歩いているのなら、大抵自分の同類だ。

 そうおどけてみせる旅人の目は、夜空よりももっと深い淵だった。

「孤独でしたよ。最初こそ、自分は何にも縛られずに生きるのだと意気込んでいましたがね。でも次第に、依るべきもののない辛さが身に沁みて辛くなっていくんです。帰るべき場所のある人たちが羨ましかった。自分にそれが与えられなかったことを何度も恨みました」

 それでも、と言葉を継ぐ横顔は穏やかなものだった。

「それでも、まっすぐに歩けと教えてくれた人がいたのです。その人のおかげでここまで来られました」

 そこで言葉を切って、旅人は青年の顔を見た。

「あなたによく似た人でした」

 年に一度だけ、夏が放浪の定めを解く。

 どこからともなく彼らはやってくる。なんの約束もないままに集まり、一夜の祭りを開く。浴衣に身を包み、夜店のラムネを傾け、歌を唄って過ごす。旅人も吸い寄せられるようにそこへ赴いて、そして、出会ったのだという。

 青年と同じ、土の匂いのする言葉に。

 無邪気でありながら、深く澄んだ瞳をしていた。旅人はそう語る。

「あなたの孤独に自分は感謝する……そんなことを言いました。私が旅に出ていなければ、会えることはなかったのだから、と。当然、そうは思えませんでしたよ。諦めて受け入れたつもりでいましたが、忌まわしい運命には違いありませんでしたから」

 縋る旅人に、その人はなおも語りかける。

 そのさびしさを、かなしみを、世界は美しいということを、唄うのだと。

 生きているということを、唄い続けるのだと。

 誰もあなたを選ばなくとも、あなたはあなたの道を選びなさい、と。

 旅人を弟子と呼びかけたその人は、音もなく去っていった。今頃は山か草原か、森のなかか。気の向くままに歩いているだろう。旅人はそのように話を締め括る。

 その人と自分が似ていると聴かされて、青年は少しばかり恥じ入る。

 自分は人を教え導けるような人間ではない。そんな立派な生きかたはしてこなかった。自分もその人に会って、言葉をかけてもらいたいと望んでいるほどだ。

 しかし、旅人の目に宿る懐かしさと感謝の念は絶えない。

 旅人は、ずっとその人を想いながら歩き続けてきたのだろう。

 どんな空のしたであっても絶えることのない歌のように。

 もしその人に出会えるなら、と青年は応える。あなたの導いた人は、こんなに立派にまっすぐに歩いていると伝えたい。そして、とても歌が上手いのだと。

 旅人の頬がほんの少し、赤らむ。

「初めてですよ。そんな風に、褒めてもらえたのは。……これは、あなたに」

 差し出された竜胆は、薄闇にほんのりと甘い香りが漂わせる。

「私の旅はここで終わりのようです」

 疲労と孤独にさいなまれても、笑みは清々しいものだった。

「いつか帰り着く故郷すら失って、どこにも辿り着くことがないとわかっていて流浪を続けて……私の人生にどんな意味があったか、まだわかりません。だけどこうして最後に語り合える相手がいたのなら、少なくとも私の旅は、悪くなかったと思えるのです」

 その言葉を待っていたように、りんと汽笛が鳴り響く。

 舞い降りた客車の入り口にやはり迎えはない。旅人は背筋を伸ばし、軽い足取りで乗り込んでいく。

「ありがとう。またいつか、どこかの旅路で」

 振り返った旅人に、竜胆をしっかりと抱きしめて頷いた。

 ああ、これが最後の旅なのだ。青年はやっと理解した。

 ついに道連れはなかった。しかしあの歌の、笑顔の、なんとうつくしいことだったろう。

 客車の窓がひと粒の光に変わっていく。それが遠ざかり消えるまで青年はそこに立って見送った。耳の奥に、旅人の歌を蘇らせながら。


 ベンチのかたわらに花瓶がある。

 そこに差した青い花が二本、ゆるやかに光を点しては消える。

 腰かける青年がその緩やかな光を見つめている。

 彼はもうずいぶん長いあいだそうしていた。時折やってくる誰かと短い会話を交わして、去っていくのを見送る。そうやって過ごしていた。

 そして、今夜もまた足音がひとつ、近づいてくる。

 青年はいつもと同じように立ち上がり、帽子を取ってそれを出迎えた。

 そして、はっと息を呑んだ。

 ぼろぼろの服の裂け目から傷が覗く。日焼けした髭面は憔悴して、縺れた髪にはよく見れば塩の結晶がまとわりついている。荒れた手があの竜胆の花を掴んでいて、それに照らされた胸元に鍵が一本、揺れているのがわかった。

 そして何より、疲れ切ってもなお、その男の目からは光が失われていなかった。

 おばんでがんす、とおそるおそる声をかけても、男は応える気力すらないのか、小さく頷くだけだった。青年は急いで駆け寄り、男の腕を取ってベンチへと座らせる。何か欲しいものはないかと尋ねた。

「……み」

 声を出さなくなって久しいのか、ひどく喉が掠れているようだった。苦しげに咳き込んで再び男は口を開く。

「水をくれ」

 青年は慌てた。手許にある水といえば花瓶の中身だけだったが、そんなものを飲ませるわけにはいかない。仕方なく、水はないと応えると、男は億劫そうに片腕を上げた。伸ばした指は爪が割れ、治り切らない傷に血が滲んでいる。

「それは、空なのか」

 指先を視線で辿っていくと、ちょうど花瓶の陰に見慣れないものが置いてある。

 古ぼけた水筒だった。

 あちこちに傷がついている。覆い布も擦り切れて、今にも破けそうだ。登山にでも持っていったかのようだった。取り上げるとずっしりと重い。青年は期待を込めて水筒を揺すった。すると確かに、内部から水の振動が返ってくる。急いで蓋を開き、男に差し出した。

「助かる」

 男は短く言い、猛然と飲み始めた。こぼれた水が襟を濡らしても気にも留めない。汗にまみれた喉がごくごくと動く。その規則的で力強い動きは、傷つき疲れた男の体に懸命に血を送り続ける心臓を連想させた。

 地面と垂直になるほど水筒を傾け、最後の一滴まで飲み乾した男はぶはあ、と息を吐いた。肩を上下させながら口元を拭う。大丈夫か、と問いかけると男は顔を上げて頷いた。

「……ありがとう」

 空の水筒を受け取って、青年は隣りに腰かける。何があったのかと男に問いかける。

 男はしばらく言い淀んでから、意を決したように口を開いた。

「旅を、していた。遠い海を」

 自分は二度生き延びたと、男は語る。

 一度は長い戦争から、二度はやさしい街に守られて。

 大勢の人を殺した。生きるためだったが、それが言い訳にならないことを男はよく知っていた。獣のように殺し、喰らって、生き延びた。そしてある朝、ひとりの少女に出会った。

「本当に綺麗な夜明けだった。水平線と、彼女と……幻覚だと思った」

 少女は小さな街の管理人だった。戦争を生き延び、疲弊した人々が寄り添い力を合わせて暮らす、小さな街。住人たちは男に惜しげもなく食事を提供し、少女は自分の寝床を貸し与えた。男の胸中と、隠し持った銃を充分に知りながら。

 傷つけることも、奪うことも、もういい。もうそんなことはしなくていい。

 彼らは、そう語りかけた。

「ずっとそう言ってほしかった。……今になって思えば、だが」

 男は少女の手伝いという仕事を得て、街の新たな住人となる。手が空けば畑を耕し、古びた農具を手入れし、退屈だと口を尖らせる子どもたちに玩具を作った。夜には火を囲んで語らった。素朴で満たされた、穏やかな日々を男は過ごした。

 だから、最期の日々も決して恐ろしくはなかった。

 戦争の、最後の残り火。撒き散らされた毒は岬の街を浸し、ひとりまたひとりと住人たちは息を引き取っていく。

「結局、彼女と俺が残った。何かの偶然みたいにな」

 彼女、と口にする男がたったひとりでここへやってきた理由を、青年はもう理解していた。だから、言わずにはいられなかった。

 その人は、あなたと一緒にいられてしあわせだったに違いない。あなたが寄り添ってくれたことが彼女を救ったに違いない。どんな結末であったとしても。

 男は黙って青年を見る。綺麗事だと笑われても構わなかった。だから、青年は臆さず男を見つめ返す。

「もし、そうだったら」

 男は表情を変えない。しかしその瞳には、幾度も重ねられた祈りがあった。

「俺はもう、何もいらないよ」

 胸元の鍵が、頷くように小さく揺れる。

 男と青年はひたすらに待つ。思い出したようにぽつりぽつりと言葉を交わし、また黙る。それを繰り返しながら時間を潰す。次第にそわそわと落ち着かなくなっていく青年を、男は苦く笑いながら眺めた。

「焦ったところで、来ないものは来ないだろう」

 それに、と男の声に自嘲の色が混じった。

「俺には、迎えられる権利なんかないのかもしれない。それだったら納得だ」

 それは違う、と青年は強く反論する。あなたにも必ず迎えが来る。誰もひとりぼっちで置き去りにされたりしない。それだけは間違いないのだ、と。

「それは、あんた自身のこともか?」

 すかさず返答する男に、いったん言葉を切る。何を、誰を待っているのか。それはわからない。ただ、そのときが来れば必ずわかる。必ずわかるのだ。

 拙い説明でも、男はやはり笑わなかった。

「そうか。……あまり、先じゃないといいな」

 短い言葉に、青年は男のやさしさを、光を垣間見る。

 地獄のような戦争。独りきりで続けた過酷な旅。その途中で傷つき覆い隠されても、消えることのなかった光。

 光。

 男がふらりと立ち上がった。

「そうだ」

 辺りを見れば、朝はもう間近だった。

 白みゆく空。輝く地平線。

「あのときと同じ空だ――また会おうと、約束した日の」

 大きく吸った息は、涙を堪えるためか。

 夜明けとはじまりの空から汽笛が呼んだ。

 舞い降りた客車のドアが弾けるように開き、小さな人影が飛び出してきた。

 瞳からこぼれた滴が弾け、停車場に満ちる光を照り返す。

 ほとんどぶつかるように飛びついてきた少女を、男は全身で抱き留めた。

「すまない。遅くなった」

 少女は首を振る。そして、強く強く男を抱きしめる。

 空はますます明るくなる。

 抱き合う二人を祝福するように、光が射してくる。

 言った通りでしょう、と青年は胸のなかで呟く。

 誰も、置き去りになんかならないと。

 去り際、男は竜胆の花を託した。

「あんたが持っていてくれ。多分これは、そういうものだと思う」

 かたわらの少女も青年の手を取る。燈火に似た、明るい瞳を持つ娘だった。

「ありがとう。待っていてくれて」

 お気をつけて、どうか佳い旅を。応える青年に、少女は頷く。

「向こうにも街があるんです。誰でも、いつでも迎え入れられるように。あなたもいつか、遊びに来てくださいね」

 いつか。いつか必ず訪れる瞬間。

 その遠い日を思い浮かべながら、青年は汽車を見送った。


 ベンチのかたわらに花瓶がある。

 竜胆の花が三本。蛍のようにゆっくりと点滅を繰り返している。

 腰かける青年がその緩やかな光を見つめている。

 ここで出会い、ひと時語らい、そして去っていった人びとが託していった花だ。

青年が確かにここにいることを示す、青い花。

 その意味を、ずっと考え続けている。

 物思いに沈む青年を、今夜もやってきた足音がやさしく揺する。軽やかに歩み寄り、やっと姿が見えるかというところでぴたりと止まった。

「こんばんは。あの、停車場はここで合ってますか?」

 青年は立ち上がり、帽子を取った。そして、問いかけにそうですと応える。

「よかった。一本道だから迷いはしないと思ったんですけど、暗かったので」

 人懐こく笑うのがわかったのは、その人もまた光る竜胆の花を大切に胸に抱いていたからだ。

 怖くなかったかと尋ねると、青年を心配させたと思ったのか大袈裟なほどに手を振った。

「いやいや、全然。夜中の野球場のほうがおっかないですよ。灯りが落ちると本当に真っ暗ですから。それに、怖い思いならこれまでたくさんしてきましたし」

 探偵、とその人は名乗った。

 迷い猫の捜索から残された未練の供養まで、手広く請け負いつつも常に身の安全を確保できるよう立ち回ってきた。しかし、ときにはやむを得ず自身を危険に晒すこともあったという。

「体を張らなくちゃいけない場面というのは、もちろんあります。けど、本当はそうなる前に手を打つべきなんですよ。怪我をしても誰も得をしませんから」

 生き延びて依頼を完遂するのは探偵の重要な使命だと話す表情は晴れやかで、どんなときも真摯であり続けた人のみが持つ輝きを備えている。お仕事が好きだったんですね、と口にしてから、ありきたりなことしか言えない自分を内心青年は恥じる。しかし探偵は満面の笑みで頷く。

「ええ。本当に楽しかったですよ。間違いなく、私の天職でした」

 天職。天から授かった、その人のほんとうの仕事。

 自分にもそのようなものがあるのだろうか。

 もし自分に天職というものがあるのなら。

 それはどんな形をしているのだろう。楽しいだろうか、苦しいだろうか。

 それよりも。

 それはいつ、見つかるのだろうか。

「あ」

 再び思考に沈みかけた青年を、嬉しそうに上がった声が引き戻す。

津嶌つしまさーん! こっちこっち!」

 大きく手を振る先に、近づいてくる輪郭が見えた。

「先に行くなって言っただろ、伊澄いずみ

 呆れ声は小走りに近づいてきて、やがて闇のなかから黒い袖に包まれた腕が伸びてくる。

 青い花を握ったままの手が、器用に探偵の――伊澄と呼ばれた人物の額を指先で弾いた。

「いって」

「迷ったらいったん立ち止まれって何べん言ったと思ってる」

「結局最後まで守れなかったねえ」

「守らなかった、の間違いな」

 大きくため息をつき、津嶌と呼ばれた人物は青年のほうに向き直った。伊澄よりもさらに背が高い。一見研ぎ澄ました印象を与えるが、厳しさと感傷をいつも心に満たしているような、そんな眼差しをしていた。

「申し訳ありません。身内がご迷惑を」

 迷惑なんてとんでもない、と青年は応える。楽しいお話を聴かせてもらった、と言い添えた。本音だった。

「そうですか……なら、よかった」

「ちゃんと楽しくお話ししてましたよ。津嶌さんみたいに誰彼構わずお説教なんかしませんって」

「お前は説教されるだけの理由が常にあるだろ」

「そんなあ。仕事はしっかりやってきたつもりですよ」

「それは認めるけど」

 屈託のない会話に、津嶌が口にした身内という言葉が頭を過ぎった。ご家族ですか、と尋ねると伊澄が応えた。

「私のいとこなんです。秦野はたの津嶌さん。私も名字は同じで、秦野伊澄っていいます」

 よろしく、と頭を下げるタイミングがまったく同じで、青年は思わず笑みをこぼしたのだった。

 伊澄が探偵と名乗ったのに対し、津嶌はなかなか自身の生業について口を開かなかった。

「まさか、市立図書館で働くただの司書なんて今更誤魔化さないよね?」

「お前にばれることくらい織り込み済みだ。いつ仕事先に現れるかひやひやしてたぞ、こっちは」

って依頼はいやってほどほど来たからね。でも、踏み込んじゃまずいってこともすぐわかったからさ。報告書でっちあげるの大変だったよ」

「そりゃ悪かった」

「全然そう思ってないでしょ」

「こっちも仕事だからな」

 口調こそ淡々としていたが、津嶌の目には苦悩の影が深い。

 伊澄に責める気持ちがないのは見ていてわかった。少しでも苦しみを吐き出して楽にさせたい、その一心だろう。

「あなたからも言ってあげてくださいよ。もう隠しても仕方ないから、話してしまえって」

 その証拠に、探偵の目は青年がここで過ごした日々をもう見抜いていた。

 聴き手として、そして見送る者として、この停車場に留まっていたことを。

 だから青年は逆らわず、口を開く。

 もうあなたを咎める人はいない。だから、あなたが楽になるのならば、どうか話を聴かせてほしい。

 津嶌は一瞬、視線を青年に投げて俯いた。ベンチに腰かけ、最後の躊躇いを払うように、ゆっくり息を吐く。

 本を誘拐したと、津嶌はそう言った。

 禁書と、彼らはそう呼んだ。

 言霊という概念が存在する以上、言葉を連ね束ね編んで生まれた本というものが、意図せず人に牙を剥くことも、きっと起こり得るのだろう。

 殺意なき殺人は、人類が生み出した叡智の結晶によって行われた。

「子どもも大人もずいぶん死んだ。未だに遺体の見つからない人たちも大勢いる……読むだけで、狂うんだ。誰も悪くないのに」

 この異常に勘づいた一部の者たちは、手を取り合って対抗することに決めた。

 いまや毒の塊と同義である本を見抜く目、そして本に狂わされない精神を持つ人間。彼らを見つけ出し、引き入れた。

「拒否権はあるけど使えなかった、ってところだね」

 津嶌は力なく頷く。

 司書として日々本に触れていた津嶌にとっては身を切るような選択だった。本と人命。天秤が傾くわけはなかった。

「あのとき……自分はやらないと、本当は言うべきだったのかもしれない」

 津嶌のシャツの胸ポケットに万年筆が差してあった。薄い傷をまとった姿は持ち主といつも共にあったことを示している。

 黒くつやのある軸が、津嶌の苦悩を慰めるように、鈍く光る。

「そうだね。そうだったかもしれない」

 伊澄が静かに口を開く。

「だけどね、津嶌さん。津嶌さんたちがしたのは、あくまで殺人じゃ――焚書じゃない。本は人を殺してしまったけれど、人は本を殺していないよ。人は、本に報復してない」

 津嶌も青年も、伊澄の言わんとしていることはすぐわかった。

 一度報復が始まれば終わることはない。どちらかが滅びるまで。

「人同士でも、仲違いしてしまったときに距離をおくのは、よくあることだよね。和解するために、いったん頭を冷やすために猶予する。それって、なんのルール違反でもないし、誰も傷つけてない。それと同じなんだよ。時間を稼いだんだ。人が、本と一緒にいられる方法を探すための。……津嶌さんたちがしていたのは、そういうことじゃないのかな」

 子どもに絵本を読み聞かせるような、やわらかい声で伊澄は語る。

「それはすごく難しくて、なんていうか、やさしい仕事だと思うよ」

「やさしい、か」

 ぽつりと呟いた横顔が、竜胆の灯りのなかで深い陰影をまとう。

 青年はたまらず、あなたは間違っていないと半ば叫ぶように言った。驚いたようにこちらを見る津嶌に、さらに言い募る。あなたは本を、死から守った。人に読まれるべき本を、消滅から遠ざけた。

 いつか来る、人と本の出会いを、あなたはその手で守り抜いた。

 胸に手を当てる。急に声を張り上げたためか、肺が抗議の声を上げている。青年は肩を上下させつつも津嶌の顔をじっと見ていた。

「……座ってください。苦しいでしょう」

 立ち上がった津嶌はベンチを示し、大きく息をついた。

「綺麗事をいくら言っても仕方ないと諦めたつもりでいたけれどね。厄介だな、人の願いというのは。一度願ってしまえば、そう簡単に振り払えない」

「変わってないね、津嶌さん」

「成長できてないだけだ」

 くすりと笑い、伊澄は津嶌の顔を覗き込む。

「どうかな、津嶌さん。納得しろとは言わない。でも今はそういうお話で、手を打たない?」

「……今回だけだよ」

 そのおどけた口調に、津嶌はやっと、笑ったのだった。

 二人はよく喋った。思い出話も他愛もない冗談も、言葉を尽くして喋り続けた。それはやってきた客車の扉が開くまで続いた。

「まさかここまで一緒とはな」

「はみ出し者同士仲良くやろうよ。これからもさ」

「はみ出し者が多過ぎるけどな、うちの家系は」

 津嶌に続き、乗り込もうとした伊澄が急に足を止めた。

「津嶌さん、それ頂戴」

 受け取った一本と、携えてきた一本。二本の花を携えて、こちらに駆け寄ってくる。

「渡せるもの、これしかないんですけど。あなたに」

 差し出す竜胆は変わらずに青く、瑞々しい。

「正直、自分の心配は全然してなくて……津嶌さんのことだけが気がかりだったんです。ずっと苦しそうだったから。最後に笑ってくれて、よかった」

 二本の青い光を、青年は大切に受け取る。

 もう、迷いはないですか。

 問いかけに、伊澄は微笑んだ。星のような輝きだった。

「ありがとう。話を聴いてくれて」

 踵を返し、客車へ駆け込んだ伊澄の姿が今度は車窓に現れる。窓を大きく開けた津嶌が口を開いた。

「ひとつ、お願いしてもいいですか。もし私たちと同じ名前のやつに会ったら、伝えてほしいんです。自分が正しいと思ったことをやれ、と」

「あと、しっかり働いてしっかり稼げって!」

 呆れたような津嶌と、満足げな伊澄。二人に向けて、青年はしっかり頷いた。

「さようなら」

「またね、お元気で!」

 揃って手を振る姿が、汽笛とともに遠ざかる。

 正しいと思ったことを。

 淡い煙のような銀河に列車が消えるまで、青年はじっと立っていた。


「やっぱちょっときつかったな、あの坂。喉乾いた」

「ほんとね。あ、自販機あるよ」

 女性のほうがこちらを見た。

「一緒に飲みません? 奢りますよ」

 お構いなく、と青年は応えたが、男性は構わず財布から硬貨を取り出して、駅舎の脇にあった四角い機械に差し込んだ。ずらりと並んだボタンが一斉に光る。そのうちのひとつを押すと、がこん、と何かの落ちる音が辺りの闇を震わせた。

 いったいなんの機械なのかと不思議に思っていたが、どうやら自動で飲み物を売ってくれるものであるらしい。

「どうぞ。甘いやつですけど」

 差し出された缶はきんと冷えていた。開けかたがわからず戸惑っていると、男性が蓋についている金属の輪を指差した。

「そこを持ち上げて……そう、そのまま手前に」

 かしゅっ、と快い音を立てて缶が開いた。狭い飲み口から泡が噴き出し、青年は慌てて口をつける。

 甘い。

 甘さのなかに辛さがあり、さらに色とりどりの香りがする。感覚のなかでそれを次々にめくっていく。舌のうえを駆け抜ける極彩色。積み上げた千代紙のようだ。華やかな香味を弾ける泡がかき混ぜ、さらっていく。濃く複雑な味わいがすうっと流れて消えた。

 たくさんの原材料、おそらく香辛料を漬け込んで、砂糖を加えて煮詰めた飲料だろう。青年の好んだ透明な炭酸飲料とはずいぶん異なる味だった。楽しくて賑やかな、お祭りのような飲み物だ、と感じた。

 二人も同様に缶を傾け、くうっ、と感極まったように声をあげる。

「美味い……生き返る」

「こういうときに飲むのが一番美味しいんだよねえ」

 額に浮かべた汗を拭って、旅人たちは笑い合う。

 その表情を見て、彼らは何かが異なると青年は悟る。

 喩えるなら、自分が見送ってきた人々とは別のページのうえで生きている。

 そんな風に見えた。

 けれど、と青年は考える。

 その違いにさしたる意味はない。

 二人はここへやってきて、自分と言葉を交わし、甘い飲み物をともに楽しんでいる。今この瞬間を共有していることだけが確かだ。

 ならば、自分のすべきことが変わるはずもない。

 正しいと思ったことを。

 歩いてきたのですか、と尋ねると二人は揃って苦笑し頷いた。

「大した距離じゃなかったんですけどね。歩いてみると結構……」

「坂がきつかったですね……」

 お互いに机に向かう仕事をしてきたのだという。

「仕事柄、すっかり運動不足になっちゃって」

「盛岡にいた頃はよく歩いたんだけどな」

 懐かしそうな男性の声に、女性が頷く。

「水沢、困ったら散歩してたもんね」

「頭がすっきりするんだよ。歩けばなんとかなると思ってた」

 言葉の通り、表情は清々しい。

「それはすごくあると思う。考え過ぎちゃうときは、歩くのが一番だよね」

「そういや北上さ、やたらと軍手の写真送ってきた時期があったよな。あれなんだったの?」

「あのときも散歩ブームみたいのが来てたんだけど、一度見つけたら気になっちゃって。そこらじゅうに落ちてるんだよ、軍手」

「そこらじゅうに? 軍手が? どんな街だよあそこ」

 はしゃぐ姿の気楽さに、ともに過ごした時間の長さが現れている。恋愛感情の特有な湿度ではなく、晴れた日の川風のようなからりと明るい繋がりがそこにはあった。

 幼馴染みだったと彼らは語る。当然のように隣りにいた、一番の友達。

 ずっと一緒に歩んできた、無二の相棒。

「楽しかったよね」

「ああ。楽しかった」

 羨ましいですね。

 しみじみと語る二人を前に、気づけばそう口にしていた。

 自分には、ついにそのような相手は現れなかった。永遠にどこまでも、ともに歩んでいけるような誰かが。

 自分は聴き手で、見送る者だ。だからこんな話をするべきではないとわかっているのに。

「ありがたいですよね。本当に」

「なんだか今になって、もっと感謝しておきたかったって思います」

 彼らは誇るでもなく、へりくだることもせず、ただありのままを口にする。大切なものに余計な飾りをつけず、ただ大切に、愛するように。

 ぼくは。

 ぼくは、この先ずっと独りきりでいるような気がするんです。

「ずっと?」

 はい。誰とも触れ合わず、このまま。

「……ずっと一緒にいたいと思ったことのある人、いますか?」

 ええ、何人も。強くて、やさしくて、うつくしい人たちでした。

「その人たちのことを、今でも大事に思ってますか」

 もちろんです。忘れられません。

「じゃあ、あなたは独りじゃないですよね」

 耳を疑った。

「忘れられなくて、今でも大事に思っているんですよね。それは独りって言わないんじゃないかなって、私は思いますよ。一緒にいたときのことは絶対変わらないですよ」

「どんなに近くにいても、俺たちが違う人間なのはどうしようもない。見ているものも感じているものも違う。だから……心とか、距離とか、そういうものが遠ざかることもあります。それでも」

 しかし、と青年は反論する。

 彼らはぼくの隣りにいません。遠くへ行ってしまった。もう会えない。言葉を交わすこともできない。

「今じゃないから、じゃないですか」

 今じゃ、ない?

「必ず会えるけど、今じゃない、ってことです」

 それは、いつなんですか。いつまで待てば、もう一度彼らに会えるんですか。

 ぼくは、いつまで、待てばいいんですか。

「会えるまで、ですよ」

 二人の回答は同じだった。

 いつまでも終わらない地獄のような、冷たく身を切るような、無情な結論だった。

 ただ何もせず、待てということですか。いつ来るかもわからない日に向かって。

「え? 何もしないんですか?」

 返ってきたのは、疑問だった。

「私だって、久しぶりに会えるときは髪を切ったり、新しい服買ったりしましたよ。なのに、何もしないで会いに行くんですか?」

「あ、やっぱり?」

「まさか、気づかなかった?」

「気づいてたけど、言ったら逆に失礼かなと思って」

「もー! 言ってよ! 結構頑張ってたんだから!」

「ごめん……」

 小競り合いを始めた二人をよそに、青年は思いをめぐらせる。

 大切な人とまた再会できたとき、自分はどんな姿をしているだろう。

 どんな自分で彼らに会いに行くのだろう。

 いや、違う。

 彼らに恥ずかしくない自分になって、会いに行かなくてはいけないんですね。

「恥ずかしくない、って言うと仰々しいですけどね。でも、そうです」

「今よりちょっとだけ、かっこよくなれれば良いんですよ」

 今よりも、一緒にいたあの頃よりも。

 ちょっとだけ、かっこよく?

「見た目に限った話じゃなくて、たとえば、人といろんな話をして、たくさん考えて……それでも充分だと思います」

「だからもう、だいぶかっこよくなってるんじゃないですか?」

 示した先に、やわらかな光。

 光る竜胆を差した花瓶は変わらずそこにある。

「もう何人もここに来てるんですよね。私たちみたいな人が」

 はい。

「ここであなたと話して、列車に乗っていった……ずっと見送っていたんですね」

 はい。

「その人たちのこと、どう思ってますか」

 青い花を手渡し、旅立って行った人々のことを。

 胸の奥に、あたたかく満ちていくものを青年は感じた。

 また、会いたいです。

 微笑んだ二人の頭上に、ガラスの汽笛が時を告げる。

 乗り込んだ客車の窓をいっぱいに開け、二人は身を乗り出した。青年は受け取った二本の竜胆を抱えて握手に応じる。

 どうか、お気をつけて。

 甘い匂いの煙を吐き、汽車は空を目指す。

 二人の乗客と、新しい約束を乗せて。

「お元気で! また会いましょう!」


 ベンチのかたわらに花瓶がある。

 ほの光る竜胆の花で満たされた、透明な花瓶だ。

 青年はずいぶん長いあいだ、それを眺めていた

 暗闇のなかにひとつ、動かない時計が立つ。駅名標を兼ねたそれを小さな灯りが照らし出す。

 十一時。

 白鳥の停車場。

 青年がふと顔を上げる。

 汽笛の音。

 停車場にはまだ、来客はない。なのに、列車はやってきた。

 しゅう、と深呼吸のように蒸気を吐き出して、目の前に停まる。

 客車ではなく車掌車の扉が開き、降りてきた人影は青年の前で立ち止まった。

 白い手袋が帽子を取り、胸に当てた。

「こんばんは」

 紺青の上着の裾は長く、袖にはぐるりと金色の刺繡が施してある。白い手袋にランプを提げていた。硝子の火屋に光るのは灯芯ではなく、小さな三日月のようだった。

 頑丈そうな革のブーツを履いた足をきちんと揃えて、深々と一礼する。

「お待たせいたしました。お迎えに上がりました」

 この列車がどこへ行くのか青年はもう知っている。

 自分にもついに、このときが来た。

「ぼくは、立派な仕事ができたでしょうか。正しいと思うことをしてきたつもりではいます。だけど」

 ――今よりちょっとだけ。かっこよくなれれば。

「少し、わからなくなってしまいました」

「でしたらその解答は明確です、お客さま」

 車掌はにこりと笑う。

「最期に寄り添うのは、聴く者の特権です。そして人を弔えるのは、見送る者だけです」

 そう言って、車掌は指を差す。

 輝く青い花。旅立った彼らが青年に託していった、最後の贈り物。

 ほのかな光は去っていく人々の眼差しを思い起こさせる。

 教義などなくていい。道標になどならなくていい。

 宙への旅路を照らすために、ただ最後のときを寄り添い過ごす。

 それがどれほどうつくしく、あたたかな餞であっただろう。

 また会う日まで。

 そう彼らは言った。

 見送った彼らが今、自分を待っている。

 永遠を流れる星の河。きらめいて涼しいそのほとりで。

「では参りましょう。一等の客車を用意してあります」

「はい。よろしくお願いいたします」

 青年は立ち上がり、汽車へ歩み寄った。ひとりでに客車の扉が開く。

 花瓶を抱きしめて、背筋を伸ばして、青年は乗り込んだ。

 汽笛が闇を裂く。向かう銀河が応えて輝く。

 列車は一度だけ、停車場に別れを告げるようにぐるりと弧を描いた。

 そして、もう振り返ることなく、まっすぐに駆けあがっていく。


 静まり返る停車場の、十一時を指す時計。

 凍ったように動かなかった針が、かちり、とわずかに音を立てる。

 十時五十分。

 解けるように、灯りが落ちる。

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