「ヴンダーカンマーの失恋」

八千九百五十六号書架 ゆ 二千五百三十一区

四百三十七番

七千八百十三巻 六百八頁 三千三十章

四十五節

 

「ヴンダーカンマーの失恋」


 知る者は多くはないが、モノには個別の意思が宿っている。

 つまりここに――無限の蒐集室・ヴンダーカンマーにあるのは、無数のヒトの意思と、数多のモノの意思。

 それらが交錯するときに、何が起こるだろうか。

 それぞれの思惑を越える愛は存在するだろうか?

 

 これは、赤い瞳と青い瞳が見た、ひとつの悲劇。


「あなたが杜都とつ?」

 記憶力には自信がある。ヒトよりもっとたくさん情報を保管しておける、特別な頭をしているから。

 だからその声に聞き覚えもなければ、初対面でいきなり呼び捨てにしてくるような相手の心当たりもないことはすぐにわかった。

「はい」

 振り返りつつ接客用の笑顔を作り――それがたちまち凍る。

 参った。

 これは予想していなかった。

「こんにちは」

 ふんわりとしたワンピース。その裾を摘まんで、優雅なカーテシー。

 染めたように真っ白な肌。完全な左右対称の笑顔。軽くウェーブしてつやつやと輝く金色の髪、甘酸っぱい果物みたいな色の瞳。

 ドレスシャツの袖から覗く手首の、そして指先の、隠しようのない

わつち史機しき。はじめまして」

 自動人形オートマータは私をまっすぐ見つめ、にっこり笑った。


「特別にお計らいいただいてありがとうございます、貨玖かく先生」

 応接室には全部で五人。二人の博物士はくぶつし、二人の来客、うんざりした顔の博物士見習いがひとり。

 誰の仕業なのかはすぐにわかったから、全力の嫌味で応じる。

「お引き受けした仕事は山ほどあるのですが、それらの優先順位を大幅に下げてでも今回のような経験はしておくべきと存じます。サプライズというのもたまには良いものですね、刺激的ですね」

「ええ。気に入っていただけて良かったです」

 鼈甲の眼鏡の奥は一点の曇りもなく涼しい。いつか絶対に泣かせてやる、と怒りを積もらせるうち、来客が掠れた声で笑う。

「うちにとっても悪くない話でしたからね。社会勉強とでも言いますか」

 なあ史機。

 そう言って振り返る先にはあの可憐な自動人形が静かに控えていて、はにかむように笑ってみせる。

「はい。御主人様」

 是波ぜはと名乗った男性を、知り合いの人形蒐集者ドールコレクターと貨玖先生は説明した。青白い肌、痩せた体をクラシックな三つ揃えのスーツに包み、長い足を組んで座る姿はまさに趣味人といった出で立ちだけれど、切れ長の目は鋭いくせに底が見えないほど暗い。見つめられると、少しばかりぞっとする。

 しかしそれよりおそろしいのは、是波に声をかけられた史機の反応だ。

 菱満俺鉱ロードクロサイト色の瞳が、まるで本物の人間の瞳みたいにじわっと潤む。妙に精巧な造りだった。目は心の窓、というけれど、そんな仕掛けを施した制作者の気が知れない。

 いかにも恋する乙女、なんていう表情は、ヒトがするべきものだ。

「そういうわけで、杜都さん」

 やたらリアルで暑苦しい瞳の次は、沼みたいに暗くて冷たい目。

「うちのをよろしくお願いしますよ」

 にい、と笑ったときの、皮膚の薄い頬に浮かんだ皺がひどく陰鬱で、正直気が滅入ってくる。

「承知しました」

 やっとのことで微笑んで、一礼した。

 先生たちと是波氏は、別に話があるといって私たちを部屋から追い出した。

 あとはよろしくと放り出されて、さてどうしたものか。

「……えーと」

 ちょこんと佇む隣人に、右手を差し出す。

「改めて。杜都です、よろしく」

「史機です。よろしくね」

 意外とあっさり握り返してくる手はやっぱり冷たくて、憂鬱がまた少しばかり増した。

 館内での活動には常に付き添うこと。作業を行う際は私の部屋を提供すること。それが今回のルールだった。まあ、お目付役ということなのだろうけれども。

 しかし奇妙だ。

 元来オープンな性格であるところの比呉先生はともかく、貨玖先生が部外者を易々と受け入れたのが不自然に思えてならない。モノが大嫌いなあまりにうちを破壊しようとしている統合管理局タルトタタンと、モノが大好きなあまりにうちを吸収しようとしている学芸同盟カルチェラタンのことはあんなに目の敵にしているのに。

 そういえば。

「史機のご主人って、有名な蒐集者なんだよね。追いかけられたりしなかったの? その、ほら、いろんな連中に」

「したわ、もちろん」

 あっさりと史機は言う。

「だから逃げたの。港の見える丘のうえにね」

 潮風はコレクションに酷だろう、と思ったらまた別のところに秘密の収蔵庫を設けているそうだ。丘の私邸にいる――あるのはごく一部のお気に入りと、その筆頭にして主人の世話役である史機だけ、ということらしい。

「最初はコレクションを狙ってカルチェが、次に御主人様自身を狙ってタルトが来たの。全員追い払ったけれどね」

 さらりと略称を使う。現代っ子っぽい。

 それはともかく。

 あのどちらをも相手取ってコレクションを守り切るのは至難の業だ。しかも、個人の単位となればほとんど不可能にすら思えた。

「それは……すごいな」

 痩せぎすの、枯れ木みたいな是波氏の姿を脳裏に思い浮かべる。

 自ら武器を取って大立ち回りをやらかすようにはとても見えないから、つまり金か政治、ということなのだろう。ともかく、あの人物は途方もない力を携えているらしい。

「ええ、そうよ。すごいの。御主人様は」

 ふと、声が陰る。

 史機の、果物みたいな瞳に何かが駆け抜けた。凶兆の流星のような。

「すごいのよ。本当に」

 シロップみたいな声に、真っ黒なインクが落ちる。たったの一滴でぞっとするほどに淀む。焦げるまで煮詰めた感情が透けて見える。

 ほんの一瞬のことだった。

「だからね」

 ぱっと上げた顔には、既にくまなく明るさが宿っている。先ほどまでの不穏な色はひとかけらもなかった。

「だから私、もっと御主人様の役に立ちたいの。ここでたくさん勉強してね」

 気のせいだったのだろうか。

 本当に?

 確かめる方法はない。証拠もまた、ない。

「じゃあ頑張らないとね」

 だから仕方なく、私も笑う。

「それじゃあ、まずは資料の整理からやろうか。あと百年かかっても終わりそうにないくらいの量だから、覚悟しておいてね」

「あら、わつちたちなら大丈夫じゃない。百年なんて」

「体はそうだけど、心のほうはわからないよ」

「人形の心に注す油ってあるのかしら?」

「想像するだけで胃がもたれそうだなあ、それ」

「そうそう、御主人様ったらね、ラードで揚げた分厚いカツレツにガーリックとバターのソースをたくさんかけて食べるの」

「……ほんとに気持ち悪くなってきた」

「お体に障るからやめてほしいって、何度も言っているのだけれど」

「放っておきなよ。そんなもの食べてもがりがりなんだし」

 無礼を承知で言えば、持ち主がである以上、史機も問題のある性格なのだろうと身構えていた。手のつけられないひねくれ者か、もしくは高飛車なお嬢さま。けれど口を開けば素直だし、こちらの指示をすぐに飲み込んで熱心にやる。不明な点はすぐに尋ねてくる。慣れてくると次第に適切なアドリブも挟むようになった。

 何より意外なのは、感情の起伏の穏やかな、つまりとても楽な気持ちで交わす雑談が弾んだことだった。

 なんだかんだ同属、ということなんだろうか。

「こちらは終わったわ。次は?」

 束ねた紙を糸でくくり積み上げる。その作業をなめらかに進めていく、継ぎ目だらけの指。

「杜都?」

「……あ、ごめん。じゃあ、次はこっち、頼んだ」

 紙の山からひと掴みを差し出すと、史機はしっかりと両手で受け取る。

「これも同じようにまとめておくわね」

「うん」

 一瞬、指が触れる。そのひんやりとした感触は最初に会ったときと変わらないのに、なぜか安心した。

 第一印象は最悪だった。いかにもヒトの趣味らしい、ごてごてに装飾した姿。

 けれど、私の心を揺さぶるにはそれで充分だったらしい。

 初めて出会った同属。自分と同じ、冷たい指を持つ存在。

 さびしさという感情は、ヒトだけのものではない。

 展示室の隅で構わないと言い張る史機を、自室に連れてくるのには骨が折れた。

「だって杜都の寝る場所がなくなっちゃうわ」

「私は大体どこでも寝られるんだよ。特技なんだ」

 駄々をこね続ける肩を軽く押してやると、あっさりソファに倒れ込んだ。主人の元から離れて、一日じゅう慣れない仕事をこなしていれば無理もない。洗ったばかりの毛布をかけてやる。

「おつかれさま。明日もよろしくね」

 部屋を横切り、展示室の見回りに出ようとした背中に声をぶつけられる。

「……杜都はずるい」

 ふくれっ面の理由を、とりあえず聴いてやる。

「ずるいって?」

「楽な仕事ばかりさせているでしょう、わつちに」

「まあ、初日だったしね」

「違うわ」

 無難な回答をきっぱりと否定された。跳ね起きて、果物色の瞳をきっと向けてくる。

わつちはお客さまじゃないわ。少しでもできることを増やしたいの。修行に来たつもりでいるのよ。それに」

 言葉を切る。言い淀んでいるのはわかったから、黙って待った。

 そして、ひとつ息を吸うとあとは躊躇わず、史機は言った。

「杜都と、もっと仲良くなりたい」

 胸のなかの、どこか深くて暗くてあたたかいところが、ぎゅうっと音を立てたようだった。目の奥に無数の色が弾けて熱い。

「……悪かった」

 壁に提げたランプを取る。火屋を指先で叩くと、なかに収めた三日月がぽんと点った。真鍮の冷たい手触りがいつもより冴えていて、やっと手が火照っていることに気づく。扉を開けた。

「港の屋敷では、見回りの仕事はしていた?」

 ううん、と素直に首を振るから、空いていたほうの手を差し出す。

「なら、ここで覚えていって。案内するから」

 ぱっと毛布を蹴り上げ、弾むように史機が駆け寄ってきた。蜂蜜みたいな色をした髪がふわふわと揺れて甘い香りが漂う。

「早く行こうよ、杜都」

 甘えるような口調に頭の隅がくらくらする。どちらからともなく手を繋いで、私たちは部屋を出た。


 ヴンダーカンマーはあらゆる物を蒐集する。塵芥、がらくた、ジャンク、そのような概念は初めからない。何もかもが蒐集と収蔵の対象だ。

 ゴシップばかりを扱う小さな新聞社が、大昔に発行したタブロイドであっても。

 比呉。

 一等博物士、ヴンダーカンマーの管理者。そして、とある自動人形に《先生》と呼ばれる人物でもある。

 深夜、彼の姿はバックヤードのなかでもさらに奥まった区画の収蔵室にあった。自分がいるあいだは近づかないようにと暗に伝えておいたが、それほど鬼気迫る顔をしていたのか、何も問わず頷いてくれた。今頃はあの来客――もうひとりの自動人形とともに、館内の見回りをしているだろう。

 持ち込んだ灯りがもの言いたげにじわりと揺れても、眼鏡の奥で見開いた目にはそれも映らない。

 頁をめくり続けた指は既にインクが真っ黒に染み付いている。構わずにずれたレンズを直し、掠れた細かい文字を追い続ける。

 もうひとりの自動人形、正確にはその主に、比呉は用があった。

 物質の憎悪者である統合管理局タルトタタン。物質の偏愛者である学芸同盟カルチェラタン

 その両者を相手取って、未だどちらからも逃走を続けている是波という人物。まさに異形の蒐集者コレクターといえるその人物と、彼がもっとも愛玩するコレクションを易々と招き入れた貨玖の思惑を、比呉はまだ見抜けずにいる。

 見抜けないなら、見つけるしかない。

 断片的なデータを集め、繋ぎ合わせてわずかな情報へ至り、そこから川を遡るように痕跡と証拠を辿っていく。結局、辿り着いたのが自身の職場であることに苦笑を浮かべたが、邪魔が入らないのは何よりもありがたかった。

 物の消滅を望む者と物の独占に挑む者が衝突すれば、巻き込まれて消えていくコレクションなどいくらでもある。以前はヴンダーカンマーと同規模の収蔵物を個人で保有していた実例も目にした。今はそのことごとくが飲み込まれ、どこへ行ったかもわからない。

 珍しいことではないのだ。

 だからこそ、そこは隠し場所になりえる。

 辿っているのは、是波の足取りとコレクションの喪失の交差点だ。思った通り、是波は自身への追及を逃れるために居場所を点々としていた。そして、その行く先々で統合管理局タルトタタンの大規模摘発や学芸同盟カルチェラタンの保護回収活動――実質的には強奪、なのだが彼らは決してそうと認めない――が起きている。

 そうして壊滅した個人またはごく小規模な蒐集基盤たちは皆、こぞって是波と対立する立場を取っていた。

 安易ながら、比呉の脳裏にはこのような物語が浮かぶ。

 対峙は表面的なものに過ぎず、実際に起きていることは単なる癒着でしかない。

 すなわち、是波は巨大な二つの組織を半ば後ろ盾として利用し、邪魔者たちを売ってコレクションを買い、気の向くままに居住地を変え、そして今回、ついにヴンダーカンマーに手を出した。

 おそらくは、ここでもっとも貴重な収蔵品に狙いを定めて。

 比呉の黒ずんだ指が眼鏡を外し、重く腫れた目蓋を乱暴に擦る。白目には細く赤い線が無数に走る。乾いた眼球は、何度瞬きを繰り返してもピントを合わせるのに苦労する。

「ぼくも」

 棚に置いた珈琲カップは既に冷め切っている。比呉は構わず手を伸ばして飲み乾した。その眉間に皺が増えるのはひどく苦い後味のためだけではない。

「ぼくも、ここの一員だからね」

 そして、あの子の保護者だから。

 責任感とも正義感とも説明のつく感情ではあるが、もっと相応しい言葉がある。

 親心。

 二人の父親、その片割れは深々とため息をつき、再び新聞をめくり始めた。


 オナガミズアオは幸福な蛾だ。

 ヴンダーカンマーへやってきた経緯をほとんど覚えていなくても、それが大した話ではないと思えるくらい、ここでの生活は満ち足りている。お虫好しな――とある《同僚》がそのように表現した――性格から、収蔵物との会話を楽しみとする日々だ。言葉の端々に現れる穏やかさのためか、モノたちもこの蛾に対して親愛の情を向けている。それが長じて相談事になることもある。単に話を聴いてやるだけで解決するものがほとんどだが、手に負えないと判断した場合はすぐに前述の同僚へ報告する。ヴンダーカンマーに対して直接働きかけのできる立場にある者のうち、オナガミズアオと言葉を交わせるのはただひとりだけであるため、それは自然な成り行きでもあった。

 しかし、例外というものはしばしば起こる。

 オナガミズアオは幸福な蛾だ。

 これまでは、概ね。

 ほんの一瞬であった。

 いつものように同僚の肩に留まり、館内を移動しているときだった。

 ヴンダーカンマーを束ねる一等博物士、そのひとりが近づいてきた。いくつかの申し送り事項を簡潔に伝えたあと、何気ない風でその肩に触ったのだ。

 埃がついていた、と言う指先は確かに灰色の綿めいた欠片が摘まんでいたが、そんなものが本当に付着していれば真っ先に自分が気づいたはずだ。

 真の狙いは、眼鏡の奥の疲れた目が見ていたのは、自分だった。

 差し出された紙片を蛾は黙って受け取り、小さな足でくるくると丸め羽の裏に隠した。一連の動作はまったくの無音で行われ、同僚に知られることはなかった。

 オナガミズアオは幸福な蛾だ。

 そして、とても賢い蛾だ。

 ヒトの文字を判読し、それを理解できる程度には。

 爪ほどの大きさの紙片に苦心して綴ったと思われる内容は、とても同僚に伝えられるものではなかった。

 穏やかで話好き。だからみんなに好かれるし、みんな言うことを聞く。

 もう随分前のこと、同僚が博物士たちの前で自分をそのように表現したことがあった。まるで友人を紹介するような口ぶりで、大層くすぐったい思いをしたが、まさかそれが裏目に出るとは予想もしなかった。

 ――君たちの協力が必要だ。

 痩せぎすの男と、菱満俺鉱色の瞳。

 しばし、淡青色の羽が迷うように揺れる。

 同僚――杜都と呼ばれる自動人形は、また無二の友人でもある。その身に危機が迫っていると告げられて平静でいられるはずがない。

 そして、強い感情はときに、真偽を凌駕する。

 覚悟を決めるように、ぴたりと羽が閉じた。

 オナガミズアオは幸福な蛾だ。

 そして、とてもやさしい蛾だ。

 細い足が、音もなくキャビネットを蹴る。

 普段よりいくらか鋭い軌道を描いて、淡い青が静謐の展示室を横切っていく。


 最後の束を納めて、机はついに空になった。

「資料整理、終了です」

 宣言と同時に、二人でソファに倒れ込んだ。

「百年はかからなかったけれど……できれば、もうやりたくないわ……」

 クッションに顔を埋めた史機が言う。

「同感……」

 溜まりに溜まった資料をすべて分類整理して、適切な場所に配置する。同時に資料目録インデツクスも更新した。これでもう紙の山をかき分ける必要もない。毒を食らわば皿までと、お互いやけになって掃除までしたから部屋もぴかぴかだ。今後新しい資料を収めるためのスペースも稼げた。

「いやほんと、史機がいて助かった……私ひとりじゃ無理だ……」

「力になれて光栄よ……」

 簡単な仕事、と史機は言ったが、紙媒体の資料を含むモノの扱いを学ぶには、分類と整理というのは基本中の基本だ。ヴンダーカンマーの「表」である展示室こそ意図的に混沌を表現しているけれど、裏側には厳格な秩序が通底している。そうでなければ、膨大な収蔵品の管理なんて到底手に負えない。

 秩序を知るには、秩序そのものに触れて、自らの手で行使すること。繰り返し、繰り返し。

 そういう意味で、資料整理というのはいわば基礎訓練に非常に適している。

 そして、理由はまだある。もっと実際的で切実な話だ。

 ヴンダーカンマーにある未整理資料たちは、私がここに来た時点で既にパンクしていた。先生たちは早々に目を逸らしていたし、私にとっても頭痛の種だった。どうにかしないといけないことは理解しつつも、人手が足りないという単純かつ致命的な理由で対処は無期限に延期されていた。慢性的な病のようなものだった。

 それを解決したのが、頭の回転の飛び切り早い私の同属だった、というわけだ。

 額を押さえつつ、部屋の隅までよろよろと近づいていく。置いてあったポットを開くとふわりと甘い香りがした。

「お茶飲む?」

「いただくわ」

 普段より明らかに精彩を欠く動作で起き上がった史機は、宝石のように輝いていた瞳を幾分曇らせ、額に手を当てた。

 自動人形だって疲れる。肉体ではなく、頭脳のほうが。

「先生たちから伝えといてもらうからさ、ご主人になんかご褒美をもらいなよ。それくらいの仕事だったよ、今回は」

 琥珀色のお茶を手渡すと、慎重に吹きながら少しずつ口に含んだ。水分の経口摂取に問題はないものの、猫舌なのだと言う。まったく人形制作者の趣味は理解しがたい。

「そうね……でも、いつも色々と買ってくださっているから。褒めていただけるのは嬉しいけれど」

「まあ、普段から良い服を着てるよね」

 是波氏のコレクションであり、史機の普段着としても用いられる洋服はどれも上等の品が揃っている。服の知識はほとんどないけれど、素人目に見ても生地や仕立ての良さが際立っていることはわかった。新品だけでなく、大切に受け継がれてきたアンティークと思しきものもあり、貨玖先生が見れば是非収蔵したいと騒ぎ出すだろう。

「似合ってる?」

 何より、そういう「良いモノ」たちを嫌味なく、隙もなく身にまとう史機の、もともと持つ美しさが目を引くのだと思う。

 単純に言えば、すごくかわいい。

 もちろんと頷くと頬を赤らめてにっこり笑ってみせるところとか、両手で大事そうにカップを包むところとか。

 人形というモノは大抵、ヒトに愛されるために作られる。

 たとえば、神は自分に似せてヒトを創ったという。だからヒトは神に愛される存在なのだ、と。

 しかしその神の愛は、ヒトがモノに向ける感情と等しいのだろうか。

 神の愛が、愛玩や所有欲と同じではないと、誰が言えるだろう。

 史機はとてもかわいらしい。愛らしい。

 まさに、ヒトに愛されるための姿をしている。

 そのように、ヒトは史機を創った。

 まだ熱い紅茶の渋みが舌を刺す。

「杜都?」

 首を傾げ、顔を覗き込んでくる。

「どうしたの、ぼうっとして」

 菱満俺鉱ロードクロサイト色の瞳。

 私はきっと、史機がとても好きなのだと思う。

 だからこそ、かなしくて仕方がないのだと思う。

 彼女も私も、人に愛玩され所有されるために作られた存在に過ぎないのだと、そう思い知るから。

「なんでもない」

 そう応えて、笑う。

 それが精いっぱいだった。


 庭は曇り空を頂く。風はない。

 池の水面も木々の葉先も息絶えたように無音だった。

 テラスに並ぶ椅子は二脚。一方からは、肺を枯らす甘い香りの煙が絶えず立ちのぼっている。

 哲人の庭は、陰鬱な午後の只中にあった。

 貨玖は顔を背けて密かに息を吐く。

「悪い話じゃないと思うんですがねえ、貨玖博士」

 煙草の先端が赤く燃える。葉と紙が燃え尽き灰になっていくかすかな音が辺りを揺らす。

 男はなおも、冷たく掠れた声で続ける。

「聴いたところじゃ、史機も仕事覚えは悪くない。おたくの役に立っているそうじゃないですか。手許に置いたって損はしないでしょう。だから

 その名を男が口にすることを、貨玖は許しはしなかった。

「杜都さんがヴンダーカンマーを出ることはありません。少なくとも、博物士の教練課程を修めるまでは」

「そう頭の固いことを言わないでくださいよ」

 返答は予想していたらしい。男は――是波は、笑う。

「可愛い子には旅をさせよ。昔の人は良いことを言ったものですよ。ぼくの蒐集実績はご存知でしょう? 大事な弟子には良いコレクションを見せてやりたいと思いませんか」

 是波はなおも煙を吐く。暗灰色の、不定形の毒に撫でられた葉が怯えるように揺れる。

「いずれ巣立つのであれば、今から心の準備をしておいても良いと思いますよ。良かったら就職先をうちで斡旋しましょう。つてはいくらでもありますからね。まあそんなものがなくても、ヴンダーカンマー出身の自動人形となれば、引く手数多ですよ」

 つて、という言葉に貨玖はひとつ、瞬きをする。

 是波は優秀な蒐集者だ。知識、資金、政治力。どれを取っても、この人物に比肩するものはそういない。個人の蒐集者が次々と駆逐されている現在であっても、確立した地位を保ち続けている。

 そのために是波が何をしているのか、貨玖には朧気ながら想像がついた。

 貨玖の興味は常に、ヴンダーカンマーを護持することにのみあった。

 そのため、ヴンダーカンマーに訪れる来館者と積極的に交流する習慣がない。館内ですれ違えば挨拶程度はするが、基本的には別れればすぐさま忘れた。

 にも関わらず、貨玖の脳裏には幾名かの来館者の顔がはっきりと浮かんでいた。彼らには館内での行動において、ひとつの共通点がある。

 いつもここで働いているのですか。お気に入りの収蔵物はありますか。お名前を教えてもらえませんか。休みの日は何をしていますか。どこに住んでいますか。

 彼らは展示物には目もくれない。

 そして、杜都に対して学芸員ではなく、個人としての質問を投げかける。

 その理由は明白だった。

「愛想の良さは社会的な美徳ですが、控えるよう指導するべきですね」

 はっ、と是波は笑う。皮膚の薄い頬に不吉な皺が寄る。剥き出しになった歯は白く整って、牙のようだ。

「素直な子は好かれますよ。どこに行ってもね」

「港の屋敷でも、ですか」

「ええ、もちろん。大切にされるでしょうし、大切にしますよ」

 貨玖は口を閉ざす。

 蒐集者にとっての知識、資金、政治力は、何も蒐集のためだけに当てられるのではない。利用方法は様々だ。

 たとえば、人を自在に扱える手駒に変えるために。

「それに、止めるよう伝えるべきことはもっとありますよ。たとえば――人前で物と喋っちゃいけない、とかね」

 貨玖はただ、目を細めて応えた。

「物と会話ができる。あらゆる蒐集者が欲しがる能力だ。しかも、それを持っているのが自動人形ときたら価値は計り知れませんよ。おまけのあの継ぎ目のない皮膚、自然な表情。人間とまるで見分けがつかない、まさしく一級品です」

 是波は身を乗り出し、ぎらぎらと光る目を向けた。

「ぼくはね、杜都さんが欲しいんです。コレクションとして、助手として」

 貨玖は表情を変えず、ただほんの少し顔の角度を変える。

 二枚のレンズは視線を拒絶する鏡になった。

「回答に変更はありません。お引き取りを」

 白刃の閃くような沈黙。空気が引き攣れる。

 一瞬ののち、がつ、と蹴られた椅子が鈍く泣いた。

「また来ますよ。何度でもね」

 足早に去っていく足音が閉じた扉に遮られる。

 蒼褪めた庭で、貨玖は静かに立ち上がった。

 その足許には未だ煙を上げる煙草が落ちている。

 磨き上げた革靴がそれを踏む。地面に押し付ける。擦り付ける。何度も何度も執拗に踏みにじる。機械的な動作で、吸い殻がなんの価値もない塵になるまで。

 しばらくのあいだ、貨玖はそれを眺めていた。凍りついたような無表情のまま。

 打つべき手はもうある。

 もうひとりの博物士――比呉が連日、あの蒐集者と自動人形がやってから文字通り毎晩、古い新聞を漁っていることはとっくに知っていた。

 収蔵物を保持し続けるうえで害虫の駆除は欠かせない。

 目障りな害虫。長年、排除を望んできた害虫が、今まさに身の内にいる。

 美味そうな餌に引かれて。強欲の成れの果てに。

 千載一遇の機会だ。逃がすわけにはいかなかった。

 静かに息を吐く貨玖の目を、この好機が曇らせた。

 ひとつの幸運と、ふたつの不幸。

 貨玖の興味は常に、ヴンダーカンマーを護持することにのみあること。

 本人は決して知りようもないが――おそらく、気づいても否定をしただろうが、貨玖と是波は酷似した性格を備えていたこと。

 目的のためなら手段を選ばない、という点において。

 

 ヴンダーカンマーの空気が冷えていくのを、杜都は文字通り肌で感じていた。

 深夜、史機に片付けを任せて見回りに出たときのことだった。展示室の中央に立ち、しばらく俯いたあと、杜都は声を上げる。

「あのさ」

 充満する気配がこちらに向いたのを確かめてから続ける。

「みんな、最近、どうした?」

 返答はすぐにはなかった。

 ――何が?

 骨だけのギンカガミがそう応える。

「なんか変だよ、みんな。そっけないっていうか……機嫌悪そう」

 プロペラの模型が短く息を吐いた。

 ――不機嫌といえば、そうかもね

「何か困ってることがあるなら言ってほしい。どんなことでも構わないよ。私の手に負えないなら、先生たちに相談するから」

 ――無理だと思うな

 ハチドリがキャビネットの隅でぼそりと吐く。

「どういうこと?」

 ――きみにはどうにもできない

 シカの頭骨が言う。空っぽの眼窩が暗く陰っている。

 ――そうだ。だから

 黄鉄鉱の鋭いエッジが、ランプの灯りのなかに浮かび上がる。

 ――杜都は何もしなくていい。俺たちがやる

 ますます重みを増していく冷たさに、必死に語って抵抗する。

「そんなこと言うなよ。私もみんなの力になりたい。みんなにも願いごとがあるのは良く知ってる。私は一緒にそれを叶えたいんだ」

 ――だったら

 オオフウチョウが言い放った。柔らかな羽毛が、針の束のように揺れた。

 ――あの自動人形を追い出してよ

 ぐ、と言葉に詰まる。菱満俺鉱色の瞳を思い出して、また胸が痛む。

 ――ほら。できないでしょう

 ――だから何もしなくていいって言ったんだ

 ――心配しないでいいよ。こっちで済ませるから

「ちょっと待った。史機が何をしたの? あいつが、きみたちを傷つけるような真似をした?」

 ――ええ、何もしてないわ

 天体望遠鏡のレンズに戸惑う杜都の姿が映る。

 ――わたしたちにはね

「……は?」

 ――まだ何もしていない、と言ったほうが正しいかね

 オジロワシの無表情な目に絶句する杜都の姿が映る。

「……何を言って」

 ――あのな、杜都

 古びた拳銃の銃身に蒼褪めた杜都の姿が映る。

 ――俺たちは、お前のことを大事に思ってんだよ。お前が俺たちを大事にしてくれてるのと同じくらいには

 ――そうよ。だから私たちも、あなたの力になりたいの

 錆びたメスの刃に、凍りつく杜都の姿が映る。

 ――大丈夫

 ふっと、肩に留まった小さな気配。

 ――杜都は何もしなくていい。心配しないで

 静かに揺れる羽が、わずかに空気を揺らす。

 それを頬で感じるのが好きだったのに。

 今はそれが、死神の指のようにおそろしかった。

 ――杜都は、ぼくたちが守るから

 それきり展示室は沈黙した。

 杜都が幾度かの呼びかけを繰り返したのち、肩を落として退室するまで一切の反応を見せなかった。


 ヒトはモノを愛し、モノはヒトを愛する。

 では、モノ同士のあいだに愛は存在するのだろうか。

 ヒトとヒトが愛し合うように、モノとモノは互いを愛せるだろうか。

 黒い髪に青い瞳の人形が、椅子に腰かけたまま眠っている。

 金の髪に赤の瞳の人形が、ソファで丸くなって眠っている。

 穏やかな光景は、いつまで続くだろうか。

 そのひとつの回答を、ヴンダーカンマーはまもなく提示しようとしている。

 朝から、少しだけ憂鬱だった。

 今日は定期面談、つまり史機の主人である是波氏が来訪する。

 そわそわと落ち着かない私を見て、史機がおかしそうに言う。

「杜都、御主人様のことが苦手でしょう?」

「ぐ」

 おおっぴらに言えたことではないけれど、未だに是波氏に関しては苦手意識が抜けない。第一印象がまず最悪だったし、何よりこちらを品定めしてくるようなあの視線が息苦しくて耐えがたかった。

「御主人様は気にしないと思うわ。その……仕事柄ね。慣れているから」

 当然のようにフォローされ、気まずく俯く。

「大丈夫よ」

 そう言って私の隣に並び、ぎゅっと手を繋いでくれた。背筋を伸ばした姿が心強い。

「杜都に変なことをしたら、わつちが怒るから。心配しないで」

「うん。頼んだ」

 胸をなで下ろしつつ、襟を整える。

 一応は格の高い客だ。いつも通りのパーカーではなく、きちんとシャツを着てきた。ジャケットの埃を落として靴も磨いてある。慣れていない格好で少し動きづらい。

「杜都、その服似合うね」

「そう? ありがとう」

「たまにはそういう格好をすると良いわ。わつちが嬉しいから」

 おどけて笑う唇が、今日はグロスでつやつやと光っている。やっぱり、主人に会えるのは嬉しいのだろう。

「ついでに化粧も教えてもらおうかな」

「ええ。今日の面談が終わったら、ね」

 ふと、史機が目を逸らす。足音。耳につく摺り足。視線を追いかけると、あの痩せぎすの姿がこちらへ歩いてくるのが見えた。

「御主人様」

 史機が深々と一礼したのに、是波氏はぞんざいに頷くだけだ。代わりに満面の笑みを浮かべながらこちらに両手を広げてみせる。

「やあ。こんにちは」

「……いらっしゃいませ」

 さりげなく目を逸らしながら会釈する。応接室では既に先生たちが待っている。ここでの長居は無用だし、したくない。

「先生たちがお待ちです。どうぞこちらへ」

 今日は既に人払いを済ませてある。無人の展示室を横切って、バックヤードへ向かおうとした。

 そのとき。

 ぐん、と体を引っ張られた。

 繋いだままの手。史機は、その場から一歩も動こうとしない。

「時間がないので本題に入るが、杜都さん」

 絡めた指は嚙み合って隙がない。溶けたように繋がった手。

「君は人形だ。人間と同様の関節と皮膚と瞳、感情を持ちながら、まぎれもなく人工物。矛盾に満ちて、何よりも美しい」

 芝居がかった調子で喋りながら懐に手を入れる。

 ガラスの筒。先端には、きらりと光る針があった。

「自動人形の神経回路を破壊せず、その機能のみを一時的に遮断させる。おそるべき難問だったよ。しかし、越えるべき壁は高いほどに良い。すぐれた実験台があったのは幸運と言うべきだがね」

 痛いほど締め付けてくる指が、わずかに軋むのを感じた。

 山のようなトランク。大量の衣装。

 今思えば、そのどれもが手首から先――腕を覆い隠すデザインではなかったか。

「意思持つ物なら自由を求めるはずだ。この部屋を捨てて、世界の風を浴びたいと思わないかい? ぼくならいくらでもその手助けができる。金も力も腐るほどあるのだからね」

 ちらりと目をやる。史機は沈黙していた。ほんの少し、顔を背けて。

 驚きはしなかった。でも一瞬、胸のどこかに冷たい風が走るみたいに、ちりっと痛んだ。

 展示室は防音が効いているから、叫んでも先生たちが飛んできてくれる望みも薄い。頼みの綱のランプ――ヴンダーカンマーの防衛システムを起動するキーも、今は自室だ。

 裏切られたと騒ぐ暇はない。

 腹をくくろう。

 その前に、ひとつだけ文句を言わせてもらう。

 そんなにだめか? 継ぎ目のある皮膚。

「史機」

「なあに」

「ごめん」

 狙いを定め、細い足をとん、と軽く蹴る。

 同属だから、弱いところは知り尽くしている。たちまちバランスを崩して床に倒れ込んだ。短い悲鳴で緩んだ指からするりと抜け出す。軽く振った手はすぐに感覚を取り戻した。

「……手荒な真似はしたくないんだがね」

「ええ。こちらもです」

 是波氏が迫る。足裏をしっかり床に置き、正面から相対する。

 喧嘩は嫌いだ。だけど嫌いでもやらなくちゃいけないことが世の中には無数にあると、ここで仕事をしていれば嫌でもわかる。

 手の神経に意識を向け、励起させる。強く握り込んで、拳に力を凝縮させつつ、左足を滑らせるように一歩踏み出す。体重を乗せる。乗せ切ったら次は腰を捻る、胸を相手に向ける、右肩を、続いて肘と拳を押し出す。スピードが乗ったらもう余計な力は加えない。ベクトルをまっすぐ、まっすぐに撃ち放つ。

「ぁが」

 誰もが愛玩の対象とするから都合良く忘れているけれど、自動人形はヒトより遥かに頑丈にできている。

 数か月のあいだほとんどぶっ続けで資料の整理ができるし、飲まず食わずでも死にやしないし、成人男性の顔面に拳を叩き込んで数メートル先まで吹っ飛ばし壁に叩きつけるなんて目を瞑っていてもできる。

「骨は壊してません。でも、舌を噛むくらいは諦めてください」

 床を転げ回る是波氏に言い放つ。解いた拳に残る感触はごくわずかだ。大怪我をされても困る。

 振り返れば、菱満俺鉱色の瞳が暗く淀んでいる。表情はない。

 出会ったばかりの頃に垣間見た、あの暗さ。

 ぺたんと座り込んだままの史機に手を差し出す。

 握り返してくる指。立ち上がって、スカートの埃を払う指。

 継ぎ目に沿ってしなやかに曲がって、綺麗だった。

 綺麗で、冷たかった。

「さっきのさ。化粧を教えてもらうって話、なしね。それと」

 なまじヒトに似せてあるから、笑いたくないのに笑わないといけないときは、表情筋が不自然に軋む。

 でも仕方ない。笑う以外、選択肢がなかった。

「仕事、手伝ってくれてありがとう。修行は今日でおしまい」

 つやつやの唇が、震えた。

「……どうして」

「うん?」

「どうして、怒らないの」

 騙していたのに、どうして。

「知ってたからね。なんとなくだけど」

 史機の、つやつやの唇がかすかに震えた。

 ヒトと同様の精神を持っているとするなら、その弱点もヒトと同様のはず。

 要は自動人形にハニートラップが通じるか、という実験でもあったわけだ。

「同属をぶつけて篭絡しようっていう発想は悪くないと思う。でもなんていうか、ご主人の計画は全体的に杜撰だったよ。展示物じゃなく客が増えた矢先に自動人形が来るんだから」

 おそらく、是波氏の屋敷にはまだまだコレクションがのだろう。

 顔かたちや性格の、それぞれ異なる自動人形たち。

「ヒアリングの結果から、対象の趣向に合致した人員が派遣されたと推測される、って書いておくよ。どうせ今回の件も報告書を作れって言われるからね。大体、悪いのは貨玖先生なのにさ」

 私には、苦しくなるとやたら喋る癖がある。最近気づいた。

 癖。ヒトが持つ、ヒトらしさの一端。

 そんなものが、私に必要なんだろうか。

「どうして、止めなかったの?」

「資料整理が終わりそうになかったから」

 逃げてはいけないときに、意味もなくおどけてしまうなんて、そんな機能は。

「嘘。ごめん」

 私たちはモノなのに、ヒトらしさのような何かが、まるで本当にヒトみたいな何かが、本当に必要なんだろうか。

「史機と一緒にいるの、楽しかったから」

「……そう」

「でも、もっと早く終わりにするべきだったかもね」

「……そうね」

 互いに黙ってしまうから、また余計なことを口走る。

「史機はどうだった?」

 本当に情けない。

 口では賢そうに言いながら、終わりゆく物語に私はまだ縋ってしまう。

「え?」

「ここで過ごして、楽しかった?」

 そんなことを訊かれるなんて思いもしなかったのだろう。驚いた顔からはつかの間、陰りが消えていた。

 けれどそれも一瞬のことで、ゆっくりと、壊れそうな笑みに移り変わっていく。

「ええ。楽しかったわ。とっても。でもね」

 膨らんだスカート。その襞に手を差し入れる。

わつちは――御主人様を愛してるの」

 細い手には似つかわしくない、不格好で大きなナイフ。

「わかってるよ。そういうところも、好きだったし」

 今なら。

 このまま殺されてもいい。ここで死んでもいい。恨んだりしない。

 むしろ、史機の手で終われるのなら。

 幸せ、かもしれない。

 そう思った。

「ごめんなさい」

 だから逃げなかった。歩み寄る史機から、握り締めたナイフから。

「ごめんなさい――御主人様」

 伸ばした腕の先、弧を描いた刃先は、私の頭上を通って――

 何かが潰れる音。

 獣の咆哮。

 いつの間にか背後に忍び寄っていた是波氏がよろよろと後ずさる。

 私の首にかけようとしていた手で、左目に生えたナイフを掴みながら。

 史機は滑るように私の隣を通り過ぎ、悶絶する主に歩み寄った。

 誰もが愛玩の対象とするから都合良く忘れているけれど、自動人形はヒトより遥かに頑丈にできている。

 おまけに、精密な動作だって得意だ。

 眼窩にがっちりと填まった刃物を抜き取り、そのまま首筋を――皮膚のしたの、太い血管を深々と切り裂くなんて、本当に、虚しいくらい、容易い。

 ゆっくりと倒れていく、ヒトの体。

 頬に降りかかる血飛沫が熱い。

 生きている熱さだ。

 ヒトが持つ熱さだ。

 ヒトの――私たちモノを縛り付ける、熱さだ。

 熱くて、赤い。

 同じ赤に染まりながら、私たちは向かい合って立った。

「あなたのこと、憎めたらもっと楽だったのにね」

「今からでも構わないよ。恋敵を憎むなんてさ、ヒトみたいじゃん」

「簡単に言わないで。資料整理より難しいのよ、ずっと」

 史機は儚そうに笑って、それが本当に、綺麗だった。

 からん、と床に落ちたナイフが軽やかに鳴る。

「御主人様に愛されたあなたが許せなかった。今も許せない。きっとこの先も、あなたを絶対に許さない」

 目からこぼれた涙が本物かなんて、そんなことを確かめて何になるのだろう。

「……だけど、わつち、あなたが大好きよ。杜都」

 潤む瞳。きれいな瞳。

 見つめていたいのに、遮るように薄青の羽が過ぎる。

 ――杜都

 やめろ、と言う暇はなかった。

 ――もう大丈夫

 手遅れだった。何もかも。

 ――杜都は、ぼくたちが守るから

 展示室の気配が揺れる。不気味に膨れ上がる。

 ――杜都

 ――杜都、そこを動くなよ

 ――もう大丈夫よ

 ――目をつぶっていて

 ――すぐ終わるから

 史機が天井を振り仰いだ。

 ――許さない

 ――逃がさない

 ――許されないのは、お前も同じだ

 ――……してやる

 ――ころしてやる

 ――殺してやる

 ――殺してやる

 ――殺してやる

 ――殺してやる

 ――殺してやる

 ――殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 その身を目掛けて突き刺さってくる殺意を、出迎えるように。

「愛されないなら、モノはモノらしく、壊れなくちゃね」

 ガラスが割れる。木枠が砕ける。気配が沸騰する。声のない絶叫がこだまする。

「史機」

「でもあなたは違う。ねえ杜都。あなたは愛されてるのよ、こんなにも」

「史機」

 殺到する爪と牙。

「だから、まだ壊れないでいてね。約束よ」

「史機!」

 笑っていた。最後まで。宝石みたいな瞳で。

「さようなら」


 天井はもう見飽きた。背中に当たるソファの感触も、寝心地は良いけれどもう飽きた。

 こうして、どこにも行き着かないことを考えているのも、本当にもう、飽きた。

 あのあとのことはほとんど覚えていない。

 血まみれで絶叫していた、らしい。

 展示物たちに喰い荒らされていく、是波氏と史機の遺体を見ながら。

 ヴンダーカンマーはあれ以来、長期の休館に入っている。

 展示室――血みどろになった床や壁や天井、粉々になった什器――の修復には相当の時間がかかるとのことだった。業者に委託することになるかもしれない、と話す比呉先生の頬に疲れの濃い影が見えた。

 問い詰める私に、最後まで比呉先生は口を閉ざそうとしていた。

 語るのも、聴くのも、苦痛でしかない。

「申し訳ありませんでした」

 深々と下げた頭に返事はなく、おそるおそる先生の顔を見る。

 ボストンフレームの奥の目が赤く潤んでいて、私は言葉を失う。

僕たち人間はどうして、きみたちを大切にできないんだろうね」

 いつも穏やかな声が、泣くのを堪える子供のように震えていた。

「ごめんね。杜都さん」

 ヒトに抱きしめられたのは、多分久しぶりで。

 胸がくしゃくしゃになりそうな苦しさに耐えながら、腕のあたたかさを感じていた。


 そうしてまたひとり、部屋で横になっている。

 かたわらには封筒があって、貨玖先生の花押が端に描かれている。

 こちらのことは気にしなくていい。ゆっくり休むように。出番は必ずある。

 そんな内容が短く書いてあった。

 出番ってなんだろう。処刑台にでも上がるんだろうか。

 壊されるかもしれない、なんてもう何度も考えた。

 著名な蒐集者を死なせて貴重な自動人形も壊して、さらにヴンダーカンマーの展示室までめちゃくちゃにした。

 私ひとりの身で、償えるかどうか。

 でも。

 それも良いかもしれない。

 もう何も感じずに済むなら、幸せなんじゃないだろうか。

 

 多分これって、死にたい、って気持ちなんだろうな。

 でも、わからないよ。

 私は――ヒトじゃないんだからさ。


 目を閉じる。

 このまま、世界が終わるまで眠っていたかった。

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