月浜定点観測所記録集 第五巻

此瀬 朔真

「スイートメロディーズ」

十四号書架 と 千四百九十八区

七百九十三番

二千八十八巻 四百八十九頁 六千五百十二章

五百九十節

 

「スイートメロディーズ」


 十月も残り少なくなったある日の夕方、メールが届いた。アキラさんからだった。

 ――ピアノの修理が終わりました。是非見にいらしてください

 そうか。ついに直ったのか、あのピアノ。ずっと気がかりだったんだよな。

 ――修復おめでとうございます。必ずうかがいます

 返信して、手帳を開く。指定された日付――今度の日曜日に大きく丸をつけた。

鉱星堂こうせいどうさん ピアノお披露目》

 そう書き添えて。


 都市部から夕陽を追って進み、線路に沿って住宅街を歩いた先にその店はある。愛らしさとちょっとした秘密基地のようなわくわく、そして通りがかる大型トラックの騒音さえもやわらかく遠ざけるしなやかな強さも兼ね備えた、静けさと甘い結晶を売る店だ。

 ミントグリーンのドアをくぐると、ショーケースには寒天と砂糖でできた菓子――琥珀糖がずらりと並ぶ。動物をかたどったものもあれば、本物の鉱物と見まがうほどの精巧な造りの品もある。色も味もそれぞれ異なり、眺めていて飽きることがない。

 そしてもうひとつ扉を開けば、ざわめきがすっと消えていくのがわかる。

 無数の本。ずらりと並んだ鉱物ジオラマ。透き通るキャンドル。淡い闇をそっと滲ませるスタンドライト。座席は視線同士がぶつからないように遮られ、声の代わりとしての筆記帳が言葉を受け止める。

 喫茶室に響くのは、振り子時計のつぶやきと珈琲の落ちる音、皿の触れ合うかすかな音ばかり。ため息さえ静寂のなかへやわらかく消えていく。

 鉱星堂と呼ばれるこの場所を好む者は多い。たとえ素性を知らない者同士であっても、ここに集まるというだけでゆるやかな連帯が生まれる。賑やかさと対極であってもそのつながりは芳醇で、新たな出会いのたびに漣が立ち、響き合い、そしてときに驚くような発見を呼ぶ。

 鉱星堂には地下室がある。

 十年ほど前、まだこの店が世界に存在していない頃のことだ。

 店舗の内装工事をしている最中、現在の喫茶室にあたる部屋で、作業員の一人が真四角にくり抜かれた床板に気づいた。その向こうに封印されていた地下への階段が見つけられたのは、まさに偶然だった。いつから存在していたのか確かめるすべはないが、訪れる者をすっぽりと包む隠れ家のような地下室はもちろん歓迎された。現在は展示室として使われているその空間へ、今は誰もが灯りを片手にそろそろと降りていく。

 常連の一人、昔大工をしていたという有沢ありさわが地下室の壁をそっと叩いたことから、今回の話は始まった。

「おそらく、もうひとつ空間があります。部屋というほどではないんですが、それなりに大きなものが入る程度には、広さがあるはずです」

 音がそこだけ違うのだ、という主張に、店主たちはすぐさま地下室へ向かった。階段を降りて右手側、額装のジオラマが彩る白い壁は、慎重なノックに対し、残る三面の壁とははっきりと異なる響きを返した。

 かくして開かれた会議には、二人の店主と常連客の面々が参加した。議題は無論のこと、もうひとつの地下室の封印を解くか否かだ。

 いわく。

 空間があるなら、まずは開けてみるべきだ。害のあるものが隠されているなら取り除かなくてはならないし、そうでないなら再び塞いでしまえばいい。

 またいわく。

 現在の店舗、ひいてはそれがある建物をいたずらに傷つけるのは得策ではない。もし空間を開くなら工事が必要になり、営業にも支障が出る。

 意見は真っ二つに分かれ、普段物静かな彼らの議論は、端から見ればごく控えめではあるが白熱した。しかし結論は出ることなく、判断は議長に委ねられることになった。

「開けてみましょう」

 あっけらかんと店主たち――アラガネと晶は言った。

「営業に響くのはもちろん困っちゃうんですけど。でも何が入っているのか、わたしたちも知りたいんですよ」

 鶴の一声だった。

 常連客たちは一致団結して準備を始める。店の休業日のたびに集まっては、地下室から展示作品や設置物を運び出し、くまなく掃除した。空っぽになった部屋には腕の良い職人たちがやってきて、件の壁の向こうに間違いなく空間があると確認したのち、最小限の力でハンマーを振るった。

 空間は、予想していたよりももっと広く、奥行きのあるものだった。

 埃まみれのくすんだ白。

 古びたアップライトピアノがすっぽりと納まる程度には。

 常連客たちは再び混乱に陥る。

 なぜピアノ? 大昔からあるわけでもないビルの、しかも地下室の、よりによって壁のなかに、なぜ?

 当然、考えたところで理由はわからない。建物のオーナーがそもそも地下室の存在を把握していなかった以上、手掛かりは皆無に等しい。

 そうなれば、次の段階に進むのみだ。

「じゃあ、謎解きはここまでにして」

「やるべきことをやりますかね」

 壁のなかから出てきた、古ぼけたピアノ。これをどうするか。

 今回は会議を開くまでもなかった。

 ある日の午後。

 店の前に黒いバンが停まった。降りてきた人物が静かに店の扉を開ける。

「こんにちは。月浜調律所です」

 長い髪を後ろでひとつに結び、真っ白なシャツをまとい、微笑みを浮かべる姿はまさに調律師のイメージにふさわしかった。

『調律師じゃなければ、詩人』

 井上いのうえが珈琲を啜りつつ、そう書いたノートを差し出した。周囲の席から一斉に客が覗き込み、まったく同じタイミングで頷く。

 調律師、あるいは詩人。そのような『耳を澄ます』仕事にぴったりの人物だと評された彼は、永浦ながうらと名乗った。ピアノの調律とひと口に言っても内容は様々で、永浦氏は新品よりも、長年眠っていたような古い楽器を主に扱うのだそうだ。

『おあつらえ向きだ』

 宇佐見うさみの腕が伸びてきてノートの余白にそう書き足し、再び無言の同意がその場に流れた。

 永浦氏は地下室と喫茶室を何度も往復し、階段のかすかに軋む音がその日じゅう、やさしく部屋に鳴り続けた。工房への移設が決まったピアノは、適切な大きさの部品に分解されたのち車に積まれ、相棒として長く寄り添ってきた小さな椅子も、置き去りにされることなく助手席に納まった。

「定期的に修理の様子をお知らせします。気になることがあったら、いつでもご連絡ください」

 箔押しの名刺を店主に託し、永浦氏が店を後にしようとしたときだった。

「永浦さん」

 ブレザーの襟を整えた海老名えびなが呼び止めた。

 喫茶室では私語を控えること。そのルールを無視した行動だったが、咎める者はいなかった。

「あのピアノ、きっとさびしかったと思うんです。独りぼっちで……。だから、どうか直してあげてください。お願いします」

 周囲にいた客も次々に立ち上がり、めいめいに頭を下げた。

「楽器は、大切に思ってくれている人がいる限り、必ず蘇ります」

 永浦氏は彼らにまっすぐ向き直り、静かに頷く。

「皆さんのお気持ち、確かに受け取りました。全力を尽くすとお約束します」

 バンは夕暮れ時の住宅街を去り、それを見送った客たちも一人また一人と帰路に着いた。

 一日の営業を終え、掃除や精算を済ませて店を締める前、二人の店主はがらんとした地下室に降りてみた。

 展示してあった作品は、作家たちに事情を伝えて一時的に引き取ってもらった。迷惑をかけて申し訳ないと、謝罪しても誰ひとり怒りや落胆を見せることなく、是非自分もピアノを見てみたい、修理が無事終わりますように、と言葉を残した。そのなかの一人、無限の階調を持つ青で絵を描く作家が、ある提案をした。

 その内容について、店主たちが喜んで賛成したのは言うまでもない。改めて地下室に降りた今日も、随分遅い時間まで店に残っていたのは、作家の提案に基づいた特別な菓子を試作していたからだった。

「楽しみだね」

「うん」

 綺麗にくり抜かれた壁は、補強し塗装を施したのち改めてピアノを納める空間として利用しようと考えていた。今はまだ埃っぽい地下室はいずれ、以前よりももっと素晴らしい秘密の部屋になって来る人を迎えるだろう。

 鉱と晶は顔を見合わせて笑い、階段をゆっくりと昇っていく。

 灯りと錠の落ちた店は夜の静寂に包まれ、明日を待つべく眠りについた。

 晶が封筒を差し出す。受け取った井上がその中身を取り出して机に並べると、ほうと感心の声が上がった。

「もうここまで直したんだ! すごいなあ」

「このパーツ、すごく綺麗になってる」

「もうとっくに在庫はないだろうから、自分で作ったんだろうな」

 口々に感想を述べる、その対象は封筒に入っていた写真だ。永浦氏は約束通りレストアの様子を定期的に伝えてきていた。それも、フィルムカメラで撮影したものを真っ白な封筒に入れ、ワインレッドの封蝋で留めるという古風なやり方で。

「でも本当に、何度見ても変わった……というか、変なピアノですよねえ」

 写真の束から一枚を抜き取り、宇佐見がしみじみと呟く。

「ダメ元で調べたんですけど、やっぱりどの本にも載ってませんでした」

「そりゃあ……まあ」

「そうでしょうね……」

 ピアノという楽器は、鍵盤に接続されたハンマーがピアノ線を叩くことで音を鳴らす。

 グランドピアノはピアノ線を水平に、それに対してアップライトピアノは縦に張ってあるという違いはあるが、音の出る仕組みは変わらない。また、ハンマーが実際にピアノ線を叩く部分は、やわらかなフェルトで作られているのが通常だ。

「まさか、鉱物いしでできてるなんてねえ……」

 修理が始まってすぐ、永浦氏が送付した一通目の進捗報告を見て全員ひっくり返った。

 ハンマーのアームには、トパーズ、ルビー、サファイア、クオーツ、果てはダイヤモンドまでもが填められていた。

 ピアノ線を叩いていたのは、地上で草を食む羊の毛ではなく、地下で夢を見る石の珠だったのだ。

 永浦氏はそれらの性質も調べており、その結果、ただの装飾のためだけではなく実用に耐える硬度を持つ鉱物が選定されていたこともわかった。

 正気の沙汰ではない造りだった。

 地下室にはもうひとつ空間があって、そこから古いピアノが出てきて、しかもハンマーは鉱物でできている。

 鉱星堂という店はもともと、物語の舞台のような幻想めいた場所ではあったが、その非現実性をいっそう強めるような事態になった。

「なんか、すごいことになってきましたね」

 腕組みする小笠原おがさわらにそう言われた晶は、いつも通り朗らかに笑って応える。

「楽しいですねえ。わくわくします」

 一方、鉱はいつものように厨房に立って黙々と珈琲を淹れていた。祈りに似た姿勢で仕上げられるオリジナルブレンドは今日もとびきりに美味く、浮かれる常連客たちをひと口で鎮静させる。

「あのピアノ、無事に直ると良いなあ」

「永浦さんならきっと大丈夫ですよ。ゆっくり待ちましょう」

 芳ばしいため息の響く客席に、茶請けを乗せた小皿が運ばれてくる。もちろん、色とりどりの琥珀糖だ。

「あ、ヨーグルト味だ。ラッキー」

「私もこれ大好きだわ」

「美味しいよねえ。すみません、これ、持ち帰りでひとつ」

「私もお願いします」

「じゃあ、ぼくもください」

「かしこまりました」

 日常にありながら、当然のように非日常を受け入れる。

 サンクチュアリの小さな店には静かな時間が流れていく。

 そして、季節がひとつ変わる頃。いつもの赤い封蝋を目印に、普段よりも厚い封筒が鉱星堂のポストに投げ込まれた。

『お待たせいたしました』

 透けるほどに薄い便箋に流れるようなブルーブラックで綴られたメッセージは、修理の完了を報せていた。

 おそらく、撮っているうちに楽しくなってしまったのだろう。同封されていた写真は本が一冊できそうなほどの厚みがあった。かたわらに立って、あるいは淡く光の射す窓辺から写されたピアノは清楚さと気高さをまとっていた。

「永浦さん、写真上手いね……」

 ファインダーを熱心に覗く姿が目に浮かぶのか、感心したように井上が言った。

「昔から多趣味な人なんだよ。ついでに凝り性なんだ」

 永浦氏の知り合いであり、氏と鉱星堂を引き合わせた張本人である小笠原が、しかしここまでとは思わなかったな、と言い添える。

「ピアノの修理ができて、カメラも扱える。大したものだよ」

 有沢が深い声で賞賛すれば、海老名がそれに続いた。

「写真教えてもらおうかな。こんなに撮れたら楽しいですよね」

「海老名さん、カメラ買ったんだっけ」

「はい。バイト代がやっと貯まって」

 宇佐見の尋ねに応え、海老名が鞄から二眼レフカメラを取り出した。

「渋いねえ! 良い趣味してる」

「どうやって撮るんですか、これ」

「上から覗くんです。こんな風に……」

 場が盛り上がりつつあるところに、ぱんと手を叩く音が響いた。一斉に視線が集まる。驚いた顔の常連客たちに、晶はにっこり笑いかけた。

「実はですね。修復が終わったら、やってみたいことがあったんです」

 青の作家が提案したのは、演奏会だった。

 ただ置いておいて、たまに誰かが触るだけ。それではあまりに味気ない。

 この不思議なピアノに再び音が宿った喜びを、みんなで分かち合おう。

 常連客たちの喜びようといったら祭りのようだった。何を弾くか誰を招くか、肝心の楽器がいつ戻ってくるのかもまだ決まっていないというのに、溢れるアイデアは毬のように喫茶室の天井を跳ねた。いまや誰もがあのピアノを宝物のように思っていた。偶然がもたらした贈り物を、どうすればこの先ずっと大切にしていけるか。思うのはそればかりだった。

 閉店間近のひとときは明るく過ぎていく。

 晴れた日曜日は穏やかに暮れ、住宅街の路地に長く伸びていた影もゆっくりと夕闇に溶け込んでいく。この日、店はいつもより早い時間に扉の覆いを下ろした。

 厨房は既に慌ただしく動き始めている。まだ商品棚に並んだことのない琥珀糖、よく磨いたグラス。満腹の冷蔵庫の脇では、洗いたての皿とアンティークのスプーンが出番を待ち構えている。晶の指揮のもと、今夜のための特別な菓子が出来上がっていく。

 一方喫茶室では、俯いて作業を続ける鉱を中心に珈琲の香りが立ち込めていた。黄金の滴が落ち、ポットに溜まっていくにつれ、物静かな鉱の頬にもほんのりと赤みが差してゆく。傍らにはリキュールの壜やクリームを満たしたピッチャーが並んでその様子を見守っていた。

 と、その乳白の水面がかすかに揺れる。

「いてーっ!」

 間抜けな悲鳴はカウンターの外、階段の下から届いた。

「ちょっと、大丈夫?」

「もうだめです、これ以上は珈琲飲まないと無理ですう」

「もう散々飲んだだろ」

「そうですよ、三回はお代わりしてたじゃないですか」

 額を押さえつつ情けなくねだる小笠原を、井上と宇佐見が呆れたように叱る。三人とも袖をまくっていた。

「小笠原さん、このあいだ薬缶を持ってきて、これに珈琲を入れてくれってお願いしたそうですよ」

「ああっ、それは内緒にしてくれって言ったのに!」

 海老名の呟きに、有沢は深々とため息をついた。

「……さあ、もうひと息だ。終わったら美味い珈琲が待ってる。頑張ろう」

 常連客たちは頷くと額の汗を拭って作業に戻った。

 その様子を、白いピアノが眺めている。

 ほんの少しくすんだオフホワイトの蓋を開けば、整然と並ぶ純白と漆黒。染みひとつない鍵盤と、錆びひとつないピアノ線。そして、曇りひとつない鉱石のハンマーを携えて、アップライトピアノは店に帰ってきた。

 お披露目会の当日が迫り、人間たちが準備に追われて駆け回るなか、照明を落とした空間にシルエットを浮かび上がらせながら、ピアノもまた静かにその日を待っていた。

 もっとも心を躍らせていたのは間違いなく、主役たるあの楽器だ。

 さびしかった。見つけてもらいたかった。積もりに積もった埃を払って、もう一度弾いてほしかった。その願いがまもなく叶うとあって、一人で唄い出しそうなほどだった。

 そして、約束の時間ぴったりに、永浦氏が店に現れた。

 華やかなデザインの白いシャツに、わずかに艶のある黒いタイを締め、楽譜を携えている。多趣味な修復師は直すのみならず、奏でることにおいても人より秀でており、ならばと全員一致で今日の演奏者に抜擢されたのだった。

 さっそく地下室に降りた永浦氏は、薄い闇のなかでもはっきりわかるほど瞳を輝かせた。

「これは……お見事です」

 並べた丸椅子には色とりどりのキルトのクッション。天井には小型のプラネタリウムで夜天を映し、壁際のテーブルには壜詰めの鉱石オブジェと額装したサーカスの絵。そっと晶が手を伸ばし、ピアノの端に置いてあったランプのスイッチをひねる。硝子の火屋のなか、電球や灯芯の代わりにつるりとした三日月が光を放った。

 冬の焚火にも似たやわらかな光が、ピアノとそれを包む部屋を照らし出す。

 そっと蓋を開き、永浦氏が鍵盤に触れる。

 遠い地平線の向こう。あるいは子どもの頃に見た夢のなか。かつて出会った、そしていつか巡り会う場所から届く、かすかな旋律が部屋を満たしていく。

 静寂のサンクチュアリ。平穏の庭。

 誰もが満たされたように笑っていた。

 ゆるやかに夜は降り、招待状の白い封筒たちが再び店に集まってくる。

「そんなことがあったのか」

 平日の真昼。

 午睡に浸る住宅街をトラックが通り抜けていく。派手なエンジン音が狭い道を震わせても、ドアを一枚隔てただけで不思議なくらいにこの店は静かだ。地下へ潜ればいっそう静けさが強調される。

「あーあ、わたしも準備手伝いたかったなあ」

 ソファに座り、行儀悪く足を投げ出しながら小さなライトを手に取る。天井に向けてボタンを押すと真っ白い満月が映った。

 ――遠くに住んでいるなら仕方ないよ。それに、演奏会には来られたわけだし

「まあね。でもさ、お祭りは準備が一番楽しいって言うから」

 ――そうなの?

「みんな楽しそうだったでしょ?」

 しばらくの沈黙。間近で見ていた景色を思い返しているらしかった。

 ――うん。楽しそうだった

 地下室は元通りに片付いて、撤去されていた作品も再び展示が始まっている。どこかの街角をかたどったオブジェがぼんやり灯るさまは、誰かの帰りを待っているように見えた。

 ここに来るとなぜか安心するのは、ただいまとおかえりの気配がするせいかもしれない。

「楽しさって点では、この店に敵うところなんてないと思うな。安心してここで暮らしなよ」

 ――うん。……でもね

「ん?」

 ――ちょっとさびしいなって思うことはあって

「さびしい? なんでまた」

 ――私と話せる人は、まだあなたしか知らないから

「あー……まあね、気持ちはわかるけど、こればかりはさ……」

 ――わかってるよ。もちろん

 ピアノと会話できる人間などという珍獣が大量にいたら世界がひっくり返る、とさびしげな姿に言うのはあまりに酷だ。

「あの人は? 調律師さん」

 ――もう少しで話せそうだった。カメラとは話してたよ

「良い写真だったもんな……どおりで」

 座席に飾られた写真を思い返す。絶妙にピントの滲んだ黒鍵がつやつやと写し取られ、思わず見入ってしまうほどだった。

「今後もメンテナンスは必要なわけだし、あの人と会う機会もあるでしょ。話しかけ続けたらいずれ聴こえるかもしれないよ」

 ――うん

 しょげているピアノというのもなかなか珍しい光景だ。それこそカメラに収めたいところだけれど、撮っても映るのは白い楽器だけだから、なんのことかよくわからないだろう。

 ――失礼なこと考えてるでしょう

「いいや。全然」

 顔もないのにむくれた気配が伝わってくる。もともと、楽器とはこれくらい豊かな感情を持つ存在なのかもしれない。大昔の、それこそまだ言葉を持たなかった人間の祖先なら、もっと自由に楽器と心を通わせただろうか。

「楽しいことは、みんなで分け合うともっと楽しいんだ」

 ――そうだね

 急に話を変えても、ピアノはすんなりと相槌を打ってくれる。

「演奏会もそう。大勢で音楽を分かち合うのは楽しい。ピアノと会話ができるというのも、同じくらい楽しいことだとわたしは思う」

 ――でも、大勢と分かち合えることじゃない

「そう。今はまだね」

 人だったら、伏せていた目をこっちに向ける、という仕草だっただろう。そんな気がした。

「きみと会話ができる人をたくさん探そう。ここの常連客にはいろんな人がいるし、メディアにもしょっちゅう取り上げられているから、新規の客にも事欠かない」

 ――それって

「数打ちゃ当たる、じゃないけどね。どんどん話しかけてみよう。必ず見つかるよ、きみの言葉がわかる人はさ」

 ――手伝ってくれる?

「もちろん」

 ふと目に入った腕時計が、そろそろ店を出なくてはいけないと告げている。これから電車を乗り継いで、指定席で眠るか本を読む。いつもの帰路だ。

 ――そろそろ時間かな

「うん」

 短く返事をすると、少しだけ間があって、ピアノはまた問いかけた。

 ――また、話してくれる?

「もちろん」

 そう応えて、わたしは新たな地下室の主――やわらかな白い楽器に目を向けた。

「また会いに来るよ。きみと話すためにね」

 蓋を閉めたままの鍵盤が、ぽおん、とひとつ鳴った。

 夢見るような、きらめく音色だった。

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