5.いつも通り(裏)

『今どこ?』

『靴履くとこ』

『すぐいく』


 優愛のメッセージに返信した後、図書室を出た。

 これから俺は彼女と話をする。昨日までは胸躍るイベントだったのに、今は憂鬱で仕方がない。


 ──仕掛けるのは明日の下校時間です。


 坂下さんの言葉を思い出す。


 ──それまでは彼女と仲良くしてください。


 心が蕩けるような甘い囁き声が耳に残っている。


 ──大丈夫です。私を信じてください。


 俺は、その声に抗う術を持っていなかった。

 もしも彼女が詐欺師ならば、きっと騙されている。


 自分を客観視することはできる。

 精神的に不安定になっていることは分かる。


 この選択は正しいのだろうか。

 少しでも考えると頭が割れるような激痛に襲われる。


 だけど、誰かのせいにはしたくない。

 これは俺が自分で考えて、自分で決めたことだ。


「遅いよ」


 声が聞こえた。

 心臓を握られたような気分になった。


 息を止めて、顔を上げる。

 大好きな幼馴染の微かに強張った笑顔が目に映った。


(……気持ち悪い)


 強い嫌悪感を必死に抑え、息を吸い込む。

 それから俺は愛想笑いをして、昨日までの自分を思い浮かべながら返事をした。


「もしかして、ずっと待ってた?」


 上手く笑えただろうか。

 変に思われなかっただろうか。


「……これ」


 不安に思っていると、彼女は右手の袖をまくった。


「今朝のとこ、あざになってる」


 確かに蒼くなっている。

 痛々しい。罪悪感がある。


 だけど──よっぽど、綺麗に見えた。


 今の俺には彼女が汚らわしい存在に思えて仕方がない。だけど、あの蒼い部分だけは確実に俺が触れた場所だ。いっそ全身を痣だらけにしてしまえば──待てよ。なんだよそれ。思考が危険過ぎる。ヤバい。今の俺、まともじゃない。


「……ごめん」


 どうにかまともな言葉を絞り出した。


「やだ。許さない」


 彼女はおどけた様子で言った。


「何か嫌なこと、あった?」


 一瞬、時が止まったような気がした。

 微かに不安げな表情。心から心配していることが分かる目付き。物心ついた頃から一緒で、ずっとずっと大好きだった幼馴染が、そこに居た。


 だから俺は──必死に吐き気を堪えた。

 だって、そうだろ。こいつ裏で……なんだよそれ。どういう感情で俺に……ああ、クソ、グチャグチャだ。今すぐ優愛から離れたい。こいつと会話してたら、頭が変になりそうだ。


「……ごめん」


 再び言葉を絞り出した。

 優愛はショックを受けたような顔をした。


「私のせい?」


 そうだよ。


「……いや、俺のせい」


 本音を言えたら、どれだけ楽だっただろう。


「ほんと?」


 噓に決まってんだろ。分かれよ。


「……うん」


 あまりにも難しい。

 なんだよこれ。ただ会話するだけなのに。

 十年以上、ずっと、普通にやってたのに……!


「あのさ」


 移動したい。

 一秒でも早く、彼女を視界から消し去りたい。


「……お詫び。なんか奢るよ」


 俺は彼女が見えないところを見て言った。


「何円まで大丈夫?」

「……お手柔らかに」


 こんなの嘘だ。

 俺が知ってる優愛なら、こういう時は普通に帰ろうとする。


「今日は普通に帰りたいかも」


 ほら、思った通りだ。

 目の前に居るのは俺が知っている優愛だ。


 だから、だから、だから……気持ち悪い。

 何を考えているのか分からない。不気味で仕方がない。


「ハルくん、話せるようになったら、教えてね」


 こっちの台詞だよ。


「私とハルくんの仲じゃん。今さら隠し事なんて、寂しいよ」


 お前が言うなよ。


「行こっか」

「……ああ、そうだな」


 相手を気遣うような声を聞く度に、胃液が喉を焼く。

 ほんの少しでも油断したら吐いてしまいそうな程に気分が悪い。


「ハルくん、今日の授業ちゃんと聞いてた?」

「……あんまり」


 あんなに心地よかった下校の時間が拷問にしか思えない。


「ノート見せてあげよっか」

「……助かる」


 あんなに優愛の隣を歩くことが好きだったのに、今はヘドロに沈んだ方がマシだ。


「おりゃ!」


 優愛が肩をぶつけた。

 瞬間、唇を強く噛み息を止めた。


 強い酸が喉を焼いた。

 それでも、どうにか我慢した。


「……なんだよ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。

 

「ハルくん暗い!」


 やめてくれよ。

 なんなんだよ、こいつ。

 なんで、そんな、いつも通りに……!


 ──仕返し、しませんか?


 ハッとした。


 ──脳が破壊される感覚、彼女にも与えるべきです


 そっと後ろから抱き締められるような感覚があった。


「もうちょっと」


 そうだよ。決めただろ。

 俺は優愛に……俺と同じ感覚を与えてやる。


「もうちょっとだけ、待ってくれ」


 その為に、今はまだ、仲良くする。

 いつも通りを演じてやる。明日の授業が終わるまで、これまで以上に仲良くする。


「明日、また部屋に行っても大丈夫?」


 嫌に決まってんだろ。

 ふざけんなよクソビッチ。


「明日は、俺が行くよ」


 心とは真逆の言葉が出た。

 強烈な嫌悪感と嘔吐感が消えている。

 自分の中で、何かが吹っ切れたことが分かる。


 簡単だ。

 怒りが一番強くなった。


 優愛に対する嫌悪感よりも、優愛に対する嘔吐感よりも、優愛に復讐したいと思う感情の方が強くなった。


「……ハルくんのエッチ」


 ほんと、気持ち悪いよ、こいつ。

 何がハルくんだよ。気軽に呼ぶんじゃねぇよ。


「冗談だよ。待ってるからね」


 だけど今は我慢だ。

 今だけは、笑顔を見せてやる。


 全ては明日のために。

 ──脳を破壊される感覚を、与えるために。




 ……あれ? でも、どうやるんだ?

 優愛は俺のことなんて〇〇〇野郎としか思ってないのに。


 ……いや、大丈夫だ。

 坂下さんを信じよう。きっと何か考えがある。


 ……他力本願だな。

 でも仕方ないだろ。疲れたんだよ。何も考えたくない。


 だから今日は、ゆっくり寝よう。

 明日になればきっと……きっと。

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