第3話
十四歳の夏休み、ぼくは育児型アンドロイド『ヘンリー』について調べていた。
『ヘンリー』は商品名で、チカというのは、ぼくの家にいるための個体識別名だ。ぼくの家みたいに、派遣された『ヘンリー』はその家や保育園、幼稚園での名前をつけてもらってから稼働する。それは、『ヘンリー』が保育園や幼稚園、派遣先でのスタッフとして認められるための工夫だった。だから、ぼくの家にいるチカは、『ヘンリー』だけど、他の場所にいる『ヘンリー』と同じではないし、ぼくにとって特別な『ヘンリー』はチカだけだった。
『ヘンリー』は何でもできるわけじゃない。派遣先の要望に合わせてオプションがついたりするけど、基本的には育児や保育のために造られたアンドロイドだから、子どもの安全を確保したり、子どもに合わせた遊びを提供したり、簡単な家事労働を代行したりする。うちではぼくの世話に加えて、食材を切ったり、お皿を洗ったり、洗濯をやっていた。
そして、『ヘンリー』には絶対にできないことがある。
水に入ることだ。
『ヘンリー』の手足、顔は防水加工がされているけど、ボディには充電の関係もあって防水加工が十分ではない。普段は『ヘンリー』用の服を着ていれば十分だけど、服を脱いだら水には弱いのだ。だから、チカもお風呂には入れない。長時間の浸水は故障の原因になってしまう。
『ヘンリー』を作っている会社のホームページを見ながら、今更ぼくは『ヘンリー』について知らないことが多いことに気がついた。
ずっと一緒に暮らしていたけど、チカのことをぼくは何も知らなかったのかもしれない。タブレットの画面を切って、枕に突っ伏す。なんとなく、知らない星の人のことを調べている気持ちになった。それに、悪いことをしている気持ちにも。
チカはぼくが『ヘンリー』のことを調べたって何も気にしないだろうし、他に知りたいことがないか聞いてくるだろう。そう考えると、何かとても悲しくなった。頭の中には泣いている人の絵が浮かぶ。
それがぼくだとして、ぼくは一体何が悲しいんだろう。チカがいなくなってしまうこと?
それだけじゃない気がしていた。もっと何か違うことで、チカがいなくなることが嫌だと思っているみたいだ。でもそれが何か、わからないから苦しい。
枕に顔を埋めたまま、ぎゅっと目をつむる。チカがずっと家にいてくれればいいのに。そうしたら、ずっとチカはぼくだけのチカでいてくれるのに。
もし、チカが返還されたら、メモリをすべて消されて、ぼくのことや、十二年分蓄えた押越家でのことを全部忘れて、新しい家や保育園に派遣されて、そこでまた違う誰かの『ヘンリー』になるのだろうか。
それは、考えてみたけどうまくイメージができなかった。
だってまだ、チカは押越家の『ヘンリー』なのだから。
だけどその考えが、ぼくをとても嫌な気持ちにさせた。
「理人さん、起きてますか?」
部屋のドアをノックして、チカが声をかけてくれる。
「起きてるよ。どうぞ」
返事をすると、扉が開いた。
「散歩は行きますか?」
チカの言葉に、ぼくはチカと反対にある窓の外を見る。外は台風が過ぎた後で、きれいに晴れていた。
「うん、行く」
ぼくは、空とは反対で、少し暗い気持ちでそう答えた。
布団から起き上がって、チカと一緒に玄関で靴を履く。玄関が遠くなるのは朝だけで、チカと一緒ならそれも少なかった。ただ、学校への通学路は歩けなかった。
台風が通った後だから、散歩道には折れた枝や飛ばされた葉っぱが湿ったまま地面にこびりついていた。それらを避けながら、いつものようにチカと散歩をする。いつものじめじめした湿気が少なくて、夏にしては爽やかな心地がする。
「川の方はどうなってるだろう」
「しばらくは、行くことをおすすめしません」
「台風の後って、危ないんだっけ」
「増水しているので、今日はやめましょうね」
「わかってるよ」
小さな子に言い聞かせるような声で言われて、ちょっと頭にきた。遠目で見るだけで、実際に入るわけじゃない。
チカは声のトーンで、ぼくが怒っていることに気がついて「ごめんなさい」と言った。
その日は、それ以上何も会話をしなかった。
夏休みには、職場体験にも行った。自分が気になっている職場に行き、三日間、見学と体験をさせてもらう。
その職場体験で、ぼくは保育園を選んだ。学校から行ける保育園には、『ヘンリー』が派遣されていると聞いたからだ。
ぼくは他の『ヘンリー』を見たことがなかったから、チカとどう違うのか知りたかった。
職場の希望を書く時、母さんには、母さんの仕事を見てみたいからだと言った。それも半分は本当。
ぼくが行ったあおば保育園の『ヘンリー』は、長い髪をお団子にした、ぱちっとした目が印象的な、活発そうな外見をしていた。チカとはまったく違う。その『ヘンリー』はアスカという名前で、年少クラスの補助をしている。チカと違って、よく声が通るし、聞きやすい。つい耳に入ってしまう声で、絵本を読んだり、園児たちの注目を集めるのが得意だった。子どもたちと追いかけっこをしたり、身体で木登りさせたり、体力的に大変そうな遊びをよく引き受けていた。あとは、よく笑っていた。アスカの笑っている声が聞こえると、そちらでは何か楽しそうなことがありそうで、ついついそっちを見てしまう。アスカとタイミングをうまく合わせて、保育士の先生たちは園児を誘導したり、注目させたりしていた。
ぼくを含めた四人の中学生も、自由時間に園児と遊んだりしてみたけど、アスカのように誰かの気を引いたり、安全に遊ぶということは大変だということが分かった。母さんに手伝ってもらって予習はしたけど、ぼくには難しい。
職場体験二日目の夕方、ぼくはアスカのいるクラスの先生に声をかけてみた。
「ここの『ヘンリー』は、前にいた所のことを覚えていますか?」
今日、クラスで少し遊べた子の話をした後、『ヘンリー』について聞いてみた。
「どうかな? あったとしても必要ないし、アンドロイドってそういうものだよ。アスカにとっては、ここが初めての職場になるんだから」
先生の答えに、ぼくは「そうかもしれない」と頷いた。
じゃあ、ここに来る前のアスカじゃない『ヘンリー』は、どこに行ってしまったんだろう。それはぼくたちにはわからないことで、たとえ将来、他の場所でぼくがアスカに会ったとしても、アスカは今とまったく違う名前で、「初めまして」と言う。それはアスカと同じ顔をした、違う『ヘンリー』だ。同じように、一年後のチカも、ぼくの知らないところで消えて、その後大人になったぼくと会っても、ぼくに「初めまして」を言うのかもしれない。もしそうなったらどうしたらいいのと、聞きたい気持ちに、見ないふりをした。
十五歳、秋の連休。
その日は受験先の高校を見に、チカと出かけていた。受かるかどうかも、通えるかどうかもわからないのだけど、どこにあるのか、どういう場所なのか実際に行ってみようという話になったから、来てみた。チカがいてくれてよかったと思う。こんな調子で、ぼくはチカとお別れができるんだろうか。バスに乗ったけど、散歩の延長という気持ちで校門まで来ることができた。
学校の外観を見て、今までぼんやりだった通学経路や学校に通うイメージが、はっきりした気がした。
その帰り道、バスは待たずに歩くことにした。今日はあまり歩いていないし、海が近いから堤防の方へ行ってみたい気もした。
チカは黙ってついてきた。
ぼくは堤防のヘリに座って、少しの間海なのか川なのか微妙な場所を眺めていた。視線の先は海だけど、足元を流れているのはまだ川なのだ。それが不思議。
秋だから風が冷たい。チカはぼくのそばに、何も言わずに立っている。ぼくが小学五年生になった頃からモードが切り替わって、あまり自分から話しかけてこなくなった。
あと半年でチカがいる生活が終わる。それは決定していることで、覆ることはない。ぼくは受験勉強と、チカと上手にお別れをする練習をしなければいけなかった。
「ごめん、そろそろ帰ろうか」
「そうですね。もうすぐ次のバスの時間です」
一度足元を流れる川を見つめて、顔を上げる。それから、自分ではちゃんと立ったつもりだったけれど、体の方向を変える時に左足が引っかかって、重心が後ろに傾いた。
「理人さん!」
チカが、ぼくの伸ばした手を掴んで、ぼくはチカの腕を掴んで、そしてぐるんと回って、ぼくとチカは場所を入れ替わった。
転んだぼくは、落ちるチカと目が合う。次の瞬間、どぼんと水の音がした。
慌てて川を覗き込む。
「チカッ!」
波紋と泡が浮かんでいて、チカは浮かんでこなかった。
水面を見ながら、ぼくは〝やった〟と思った。心臓が速くて、走った後みたいに息切れがする。震える手でタブレットを取り出して、母さんに電話した。
その後は、警察が来て、母さんが来て、チカが引き上げられた。チカの黒い短髪は濡れ、人工皮膚なのにその肌は青白さが浮かんでいた。
その姿が目に焼き付く。それから、ようやくわかった。『ヘンリー』が派遣先ごとで名前とメモリを新しくするということが、どういうことなのか。つまり、いまぼくの目の前の光景がすべてだった。
目の前の光景が、ぼくにとっての、チカの最期だった。
川から引き上げられたチカは、すべての機能を停止していて、静かに横たわっていた。中身は確認しないとわからないから、このまま業者に回収される。
作業をしていた大人からの説明に、母さんが頷く。
母さんはぼくの肩を後ろから抱いて、泣いていた。
ぼくは泣かなかった。
それから二週間後、市役所からチカの修理が終わったと連絡があった。幸い、漏水以外に機能に異常はなく、これまで通りの動作ができるそうだ。母さんはぼくのために、あと半年の再レンタルを決めた。
帰ってきたチカは、二週間前に川に落ちる直前までの記録が残っていて、再会した時に「無事でよかった」と優しく抱きしめてくれた。ぼくも、チカの背中に手を回して抱きしめ返した。
ぼくはあれから学校に行けるようになり、学校を休んでチカと散歩に行くことはほとんどなくなった。そうやって少しずつ、チカがいない生活に慣れていかなければいけなかった。あとは、上手なお別れが残っている。
そして、その日はやってきた。
三月二十八日。スーツを着た市役所の人が、車でチカを回収に来た。
長い契約を終了し、ぼくたちは玄関でチカにお別れを言う。
「押越様、長い間、お世話になりました」
「こちらこそ、ありがとう。チカがいてくれて、とても助かったし、楽しかった。……大変な目に合わせて、ごめんなさい」
「いいえ、気にしないでください」
母さんが終わって、ぼくの番になった。
すっかり身長が同じくらいになったチカの顔を見る。その顔は、ぼくとちっとも似ていない。
「忘れないよ」
ぼくの言葉に、チカはにこりと微笑んだ。嬉しいの顔。
「ありがとうございます」
お別れが済んだら、チカは市役所の人と一緒に玄関を出て行った。
扉が閉まって、チカのいた生活が終わる。母さんはぼくの背中を押して、リビングへと促した。でも、その前にぼくはもう一度、閉まった玄関を見た。
思い出すのは、あの日川から引き上げられたチカの姿。
さよなら、チカ。ぼくのチカ。
ぼくのお父さんだった『ヘンリー』。
『ヘンリー』のチカ 藤島 @karayakkyou
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