第2話

「チカの嬉しいはなに?」


 今朝の母さんの顔を思い出しながら、ぼくは聞く。


 チカは、「理人さんと愛蘭あいらさんが笑顔でいることですよ」と笑って言った。


「チカは、ぼくたちが嬉しいと嬉しい?」


「もちろんです」


「チカが嬉しいなら、ぼくも嬉しいな」


 タブレットを見ながら、宿題の答えを紙に書く。字はあまり上手くないけど、チカは怒らないで見ていてくれた。


 枠から大きくはみ出した時は、一回消して、チカに薄く見本を書いてもらって、その上をなぞって書くとうまく書けた。


「ねぇチカ」


「はい」


「チカはプレゼント、何が欲しい?」


 ぼくはリビングの棚に飾られたクリスマスツリーを見ながら聞いた。カレンダーは、十七日までバツがついている。今日は十八日だ。


 クリスマスには、サンタさんがプレゼントを持ってきてくれる。でもそれはこの家ではぼくだけで、母さんもチカも、プレゼントをもらっていなかった。


「愛蘭さんと、理人さんが風邪を引かないことですね」


「そんなのプレゼントじゃないよ。プレゼントって、きれいな箱に入ってて、いいものがもらえるんだよ」


「箱に入ってなくても、風邪を引かないことはとても良いことですよ」


「そうかなぁ?」


「そうです。風邪を引いて、熱が出たらとても苦しいでしょう?」


 風邪を引いたら、鼻水が出て、喉が痛くなって、熱が出る。それぞれのイラストが頭の中に出てくる。鼻水が出ている人の顔、咳をしている人の顔、冷却シートを額に貼って布団に寝てる人。どれもつらそうな表情をしている。タブレットにも出てきた。チカが出しているのだ。


 確かに、熱が出ると、何も楽しくなかった。ずっとお布団にいて、ごわごわする氷まくらで寝なくちゃいけない。汗をかいてもお風呂に入れない。


「でもさ、チカがおじや作ってくれるよ。プリンも」


「元気でも、おじややプリンは食べられますよ」


「そうなの?」


「はい。でも、クリスマスにはプリンよりケーキの方が嬉しいと思います」


「うん。ぼくもそう思う」


「さ、まずは今日の宿題をやっつけましょう」


 チカはこうやって、ぼくに宿題をさせるのだ。


 ぼくとチカの会話は、チカの目にあるカメラで録画されていて、母さんが後から見返せるようになっている。だから宿題をやっていないとか、お皿を割ってしまったこととか、おやつをいつもより多く食べてしまった日とか、そういうこともバレてしまうのだった。


 チカに「言わないで」と言っても、「それは無理ですね」と断られてしまう。共犯にはなってくれないのだ。でも、ぼくが怒られる時は、チカもぼくの隣で一緒に怒られてくれた。


 優しいチカ。ぼくのチカ。


 いつでも一緒にいてくれて、ぼくを助けてくれる。


 母さんが仕事でいなくても、チカがいてくれれば寂しくなかった。チカの手は柔らかくて、でもちょっとでこぼこしてて、手を握ってくれると嬉しい気持ちになった。


 買い物の帰りに手をつないで帰る時、手の先に見上げたチカの顔はいつも優しかった。

 



 十四歳になったぼくは、中学校に行けない日が増えた。朝、母さんと話した後、靴を履いても玄関から出られなくなったからだ。理由を聞かれても答えられない。学校で嫌なことはなかった。ただ、玄関が遠くて、出られない気がして、そうなると足がもう一歩も動かなくなってしまうのだった。


 母さんは学校を休むことを怒らなかった。ただちょっと悲しそうな顔をして、「休んでいいよ」と言うだけだった。チカがいるし、配信授業もあるから、母さんがいなくても休んで平気だった。


 チカはぼくが学校を休むことについて何も言わなくて、休みの日みたいにしてくれた。お昼ご飯を作ってくれて、天気がよければお昼寝の後に散歩に行った。小さい頃のように手をつなぐことはなかったけど、チカとぼくは隣同士、並んで近所を歩いていた。


 その日は天気がよくて、風の気持ちいい日だった。もうすぐ夏が来る。近所は昔からある一軒家が多くて、道を歩いていると時々新しいお店が広い駐車場と一緒に現れた。母さんとよく行くファーストフード店とか、スーパーとか。


 学校の方は避けて、散歩を続ける。学校に行けなくなってからは定番になった散歩道。


 駅の近くに行って橋を渡っていると、ちょうど足の下を灰色の電車が通って行った。


 チカが足を止めたのを見て、ぼくも足を止める。


「電車が走ってますね」


「見えるよ」


 隣を見れば、チカの変わらない顔が近くに見えた。


「……チカは、壊れたらずっとうちにいる?」


「それは無理ですね。修理のために回収されます」


「修理されたら、メモリはどうなる?」


「損傷がなければそのままです。しかし貸与期間が過ぎれば、押(おし)越(ごえ)家での記録は全て消去されます」


「ふーん」


 ぼくは橋の下、線路に視線を落とした。


 中学二年生になった時、母さんがぼくに言った。「チカはあと一年で返すことになった」と。


 チカは、本当はぼくたちの家族じゃなかった。市役所からの借り物で、ぼくが高校生になったら返さなきゃいけない。最初からそういう約束で、うちに来ていたのだ。突然でうまく説明を飲み込めないぼくに、母さんはホワイトボードに絵と文字を書いて、ぼくが分かるまで、納得するまで説明してくれた。その説明を聞いている時間は、チカとの時間をひとつずつ捨てなさいと言われているような感覚がした。実際、母さんはぼくに説明する時、チカがいなくなった後の生活もぼくに説明していた。高校生になったら、朝のダイニングからチカがいなくなって、学校から帰ってもおかえりを言ってくれる人がいなくて、散歩は一人ですることになって、風邪を引いてもチカが作ったおじやは食べられなくなるということ。


 今まで当たり前にチカが居たのに、高校生になったら、そこからチカだけがいなくなってしまう。ぼくはここにいるのに。


 家の中にチカがいないことが、ちっとも想像できなかった。


「チカとは、ずっと一緒にはいられないの。ごめんね」


 目に涙を溜めた母さんを見て、悲しいんだな、と思った。それ以上言葉はなかった。


 ぼくはチカがいなくなることがちっともわからないけど、でも、お別れをするなら上手にお別れできる方がいいということはわかった。そっちの方が、『ヘンリー』のチカのためだ。ぼくがきちんとお別れを言えることが、チカの仕事の成功でもあった。


 それでも、十二年分のお別れをするには、一年なんて短いと思った。


 顔を上げると、日が暮れていた。空は少しオレンジがかって、青と淡く混ざっている。


 ぼくは触れていた橋の欄干から手を離した。


「チカ、帰ろう」


「はい。晩ご飯は何にしましょう」


「なんだろう。なんでもいいよ」


 歩き出したぼくに、チカは何も言わずについてくる。やっぱり少し寂しくて、ぼくはチカの隣に並んだ。


 小さい頃みたいに、顔を上げなくても横を向けばチカの顔があった。ぼくの身長はチカに追いついていたし、チカの手より自分の手の方がでこぼこしているようになった。それは、ぼくが大人に近づいたということだろうか。


 空を渡る電線が見えた。電柱は、離れてても電線で繋がっている。


 ぼくたちの間には、何もなかった。

 

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