第5話 Your wish does not come true.
『死は克服できる病である』
アキアカネは何度もそう聞かされた。
肉体による死を克服すること、精神のみで生き長らえること。そのどちらも、人類には活発に研究されてきた歴史がある。
死の途中で蘇生されること、脳機能だけを保って肉体を切り替えること、不治の病の治療法を確立させること。そのどれもが個人を生かすことだけに注力されてきた結果だ。死は間違いで、不潔で、克服しなければならないものだった。
アキアカネが死にたいと思った時、その思考は医療機関によって思春期の病であると診断され、その症状には思春期うつ病の名前をもらった。それだけだ。いかに生きていることが素晴らしく、この世界が輝いているか。そんな世界に生きていることがどれだけ幸運なことなのか。説いてくる大人に対して共感する気持ちと、そんな気持ちを抱けない自分に罪悪感を覚えて気が狂いそうになった。本当に気が狂う前に、そんなことはどうだって良くなっていった。考えることができなくなればいいと思った。早くこの世界からいなくなりたかった。何の目的も展望も期待もなく、ただ生き続けることが苦痛になった。自分が生きていることに疑問を持たない周囲に苛立っていた。飛び降り自殺を選んだのは、意趣返しの意味もあったし、自殺の通例に則ったからである。線路に飛び込むには、自殺防止ゲートや安全装置が邪魔をしてくるから止めた。首を吊ることも、家の中の紐や刃物をすべて隠された後だったので探す労力が面倒で止めた。
よし、死のうと思って、その頃まだ屋上に出入りできたビルの最上階に登って見上げた空はとても澄んでいたことを覚えている。ふわりと足が浮いて、次の瞬間には重力に従い落下。八階建てのビルだから高さは充分だろうと思っていたし、落ちる瞬間の内臓がせり上がる感覚も覚えている。これでようやく、この妙に不可解で理不尽で居心地の悪い世界から脱落できると思った。
だから次に目覚めたとき、冗談でも何でもなく「ここが死んだ後の世界か」と感じたのだが、それはあっさりと裏切られてしまった。アキアカネは脳以外を機械とすり替えられ、一命を取り留めてしまっていたのだ。それはもはや生きているのかどうなのか、定義から疑ってしまったのだが、この世界では思考が続いていて、それが一人格として統一されていれば生きていることになるらしい。最近話題になっているNPCアバターみたいなものだ。一定のプログラムに従いつつ、ある程度人間相手らしい自由な会話ができると噂されている。本当にそんなことができるのかと疑っていたが、人間がこんな風になってまで生きているのだから、それもあながち不可能じゃないのだろう。実装されれば、様々な使われ方をするに違いない。
目を覚ましたアキアカネは、すぐに自分をこの身体にした女性と出会った。彼女は『死は克服できる病である』と言い、老いることのない身体、不具合を起こさない脳を手に入れるために日々腐心している女性だった。その人のことを、アキアカネは先生と呼ぶ。名字も名前も知らないためだ。
先生は飛び降りたアキアカネの収容施設に手を回し、別で作った、似た体型のクローンの死体をアキアカネの家に帰し、アキアカネ自身の脳と身体を勝手にいじって生き延びさせたという。人道に反している行為にお咎めがないのだから、そういうものなのだろう。難しいことは、よく分からない。アキアカネ自身としては、自分の本体である脳が研究施設の培養槽の中にあり、自分は時々そこに戻されて今のアキアカネとなる前の人格データを、この端末とも言える頭蓋の中の小さなメモリにDLしなければならないことの方が厄介だった。この端末に蓄積されたデータはすべて培養槽の中にある彼女の脳に戻され、そこで一度整理される。人格の統合もそこで行われ、端末には最低限のデータが戻される。今回のような仕事では、自殺する前の思考を中心に入れられた。思春期の病を患った人にできるだけシンパシーを持ってもらうために。自ら死に近づく人間に対して、死に否定的であってはいけない。
安楽死プログラムは、そういった人間の慰めのようなものでもあった。誰に迷惑をかけることなくこの社会から消えてしまえるなんて、暴力的なまでの魅力だ。隣人に迷惑をかけることこそが悪である。死は自分で尻拭いができるものじゃないから忌避されるのかもしれない。勿論、それだけが理由じゃないのだろうけど。誰もが「今のまま」を保ちたくて怯えている。だけどそれは不可能であることに、いつか必ず気づくのだ。かつてのアキアカネがそうだったように。
アキアカネの仕事は、アキアカネ自身の目を通して先生に中継されていた。その中継データを基に、先生はまた研究費用を捻出するのだ。例えば、こういった事例を娯楽として消費する層にも、彼女は進んで接触しているらしい。研究施設の維持には膨大な金がかかる。その費用が捻出できなければ、先生には社会的死が、アキアカネには二度目の死が訪れる。それだけだ。
自分がNPCアバターの中身だと気づいたのは、この身体で動き始めてからしばらく経った後だった。社会から消えた人間。生きていない人間が、NPCとして人々の表に出てこない感情に付き合っている。アキアカネもその一人だ。ネット上で一定のやりとりを行いながら、時々相手に共感しているようなやりとりを挟んでいく。やり始めて、対人職がなくならない理由も察した。人は、人(もしくはそれに類するもの)によってでしか自身をチューニングできないのだ。そしてその相手が自分と近い属性を持っていれば持っているほど親密になりやすい。
アキアカネの身体的外見は、今ではほとんど見なくなった日本人としての身体だった。それはもはや好奇の視線に晒されるものとなっていた。欧米圏の人間にはアジア圏の人間の違いが分かりにくいが、アジア圏の人間にはお互いの人種の違いがすぐに分かるらしい。だからほとんど純血といえるものがいなくなった日本人は、とても珍しいものとして扱われるか、もしくは嘲笑の対象となるかだった。身体パーツはいくらか種類があると先生に言われていたが、アキアカネはかつての自分に近いこの身体を主に使っている。脳に位置する場所にメモリを差し込むだけで身体が切り替わるので、それなら自分の好きな身体を使う。そのため、アキアカネの使われ方も限られている。
曽根塚アコは、自分とは対照的な外見をしていた。北欧系の白い肌色、金髪と碧い目。薔薇色の唇。モデルのように均整の取れた肉体。美しいと思うのは、かつての自分が理想としていたせいか、もしくは単純に、それが世界で最高に美しいものの一つとしてもてはやされていたからかもしれない。美しいと思っているものの大半は、世界の誰かが勝手に決めたものだ。外見は違っても、曽根塚アコはアキアカネと同じ不安をその胸の内に抱えていたし、それを発散する相手を探していた。今回はアキアカネだったが、彼女が違う人間に出会っていたらもっと違う未来があったのかもしれない。安楽死プログラムの適応者は、そのまま先生の研究施設に運ばれ、アキアカネと同じ手術を受けることとなっていた。
自分の感覚に従うことの難しさが、社会との齟齬が、見通しの持てない将来への不安が、安楽死プログラムという噂につながっていく。誰かが勝手に作った夢のプログラム。自分の存在をそのまま丸ごと消してしまいたくなる衝動とその後の恐怖がない交ぜになって、自我が保てなくなるのだ。だから安楽死プログラムはいつまでもネットの海から消えないし、あってはいけないものとしてネット警察に厳しくチェックされている。それに辿り着いてしまった人は、その経歴などをすべて洗われ、失踪者となれるかどうか自分の知らないところで判定される。曽根塚アコは選ばれたのだ。かつて誰にでも訪れていた死でさえも、今では管理されている。
『死は克服できる病である』
先生はその言葉を実現するために生きているし、目的を達成するために自分を費やしている。アキアカネはその目的のための一つの実験体であり、手段だった。現在脳機能を生かしたまま適切に保存し、取り外しできるメモリに移植できるのは、この世界で先生の研究チームくらいだ。だから先生はまだ自分を取り替えのできる身体に移行させていない。それに、メモリの耐久がどのくらいなのか、脳機能の不全はどこから起こるのかなど問題点は多いらしい。実際、アキアカネほどうまく本体とメモリが機能して人格を保っている個体はほとんどいなかった。後からできた個体の多くも、アキアカネより先に廃棄されている。世界の秩序は保たれていても、自分がどの程度保たれているのか、アキアカネには分からない。使い古した日本人の身体はところどころ肌という外装に亀裂や汚れがあるのだが、そういうところは今度新しく発売される肌テクスチャで隠せばいいのだ。見たくないものは見せない。たとえ中身は腐敗していたとしても。始めるのはたやすく、終えるのは難しい。
「お疲れ様でした。データの移行を始めます」
AIの自動音声に従って、立位型のユニットに収まる。首の後ろにプラグが差し込まれ、身体の電源が落ちた。目から入ってくる光源がなくなり、音声も途切れる。身体という檻から解放され、直近二週間の記憶を呼び起こされる。夢を見るように乱雑な記憶を整理し、統合し、またアキアカネとして構成されていく。そこに本人の意識はほとんどない。
次に太陽が昇るまで、培養槽の中で夢を見続けていく。
安楽死プログラム 藤島 @karayakkyou
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